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pixivからのお知らせ [小説] R18男子に人気ランキング

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作品ID:8998391
[体験版3] うみなつのボクシング ―運命のデビュー戦―

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[体験版3] うみなつのボクシング ―運命のデビュー戦―

 海夏は全身から滝のような汗を流しながら、炎天下を走りつづけていた。いまの彼女は限りなくベストコンディションに近い状態である。足は軽やかに動くし、パンチも切れている。百メートルダッシュのタイムを計ってみたけど、いつもと同じく十二秒台だった。海夏はロードワークを切り上げてジムにもどり、晴香のすがたを探した。いますぐにボコボコにしてあげたい気分だったけど、晴香はほかの練習生とスパーリングをしている最中だった。しかもその相手は男性だった。
 彼の名前は笹岡くんといった。海夏よりひとつ年下で、晴香とは同い年である。彼はいまから一年ほど前にこのジムの門を叩いている練習生だ。おたがいに顔と名前くらいは知っているけど、それほど親密な関係というわけではない。
 笹岡くんはプロボクサーになることを夢見て、日々過酷なトレーニングに耐えている。彼の努力はみんなが認めているけど、残念ながらプロ試験の結果は不合格だった。彼にはなにかが足りなかった。これは会長から聞いた話なのだけれど、笹岡くんは人間を殴る資質に欠けているとのことである。それはパンチングの技術が低いという意味ではない。パンチ力が足りないという意味でもない。繊細で優しい性格をしている笹岡くんは人間を本気で殴ることができないのだ。優し過ぎるといったほうがいいかもしれない。彼は心を鬼にすることができないタイプの人間である。それは男性としての魅力だと思わなくもないけど、プロボクサーを目指す者にとっては致命的な欠陥と言わざるを得ない。殺す気で殴れというのがこのジムでの合言葉になっているし、非情かもしれないけど、それを実行できないようならプロの世界では通用しないだろう。
 それにしても、一体どういう経緯で晴香と笹岡くんが殴りあうという話になったのだろうか? その場にいなかったからわからないけど、とりあえず最後まで見させてもらうことに決めた。いま、一ラウンド目の終了を告げるゴングが鳴ったところである。二人とも顔がきれいだし、クリーンヒットはまだ一発もないように見えた。足どりも軽やかだったから、ボディへの直撃もなさそうだった。ニュートラルコーナーで体を休めている二人のすがたを見ると、一ラウンド目はおたがいに様子をうかがっていただけのような気がする。おそらく両者ともまだぜんぜん本気をだしていないのであろう。おもしろくなるのはこれからだ。
 笹岡くんはバンタム級で、体重は五十三キログラムだ。晴香は女子アトム級で体重が四十六キログラムしかないから、笹岡くんのほうが約七キログラム重たい。この体重差はけっこうなハンデになるだろう、と海夏は思った。
 笹岡くんが弱いといっても、それはあくまで男性の基準でものごとを考えた場合の話だ。プロ試験に何度も落ちているレベルの練習生とはいえ、それでも彼が屈強な男であることに違いはない。その気になりさえすれば、女を殴り倒すことくらい造作もないだろう。どれだけやさしい性格をしている人でも自分がボコボコになるくらいなら相手を倒したほうがいいと考えるに決まっているし、スパーリングとはいえもし女に負けたら一生笑い者になる世界だから、さすがの笹岡くんも晴香に勝たせてあげるということはないだろう。
 晴香の鍛え方がすごいといっても、それはあくまで女子のなかでの話だ。男の腕力を考えると、晴香が身にまとっている筋肉の鎧なんてけっして強靭ではない。むしろ柔らかく感じられるだろう。体重を乗せたパンチが顎に一発あたっただけで意識を失うかもしれないし、ボディブローがまともに入ったら悶え苦しむに決まっている。晴香はプロの世界で無敗を誇るボクサーだけど、それでも男女の差とはとても大きいものである。それはどれだけ努力をしてもけっして埋めることができない絶対的な差なのだ。もしかすると、担架に乗って救急車へ運ばれていく晴香の無残なすがたを拝むことができるかもしれない。
 いま一分間のインターバルが終わり、二ラウンド目の開始を告げるゴングが鳴り響いた。笹岡くんのファイトスタイルはオーソドックスである。インファイトもできるしアウトボクシングもこなせるけど、どちらかといえば足をとめての打ちあいを好んでいるように見えなくもない。過去のスパーリングでは、相手選手の懐へ果敢に飛びこんでいくすがたもたびたび見られた。けどそのときはカウンターパンチをまともにもらってリングに沈んでしまった。残念ながら10カウント以内に立ちあがることはできなかった。海夏はまだ彼がスパーリングで勝利をするすがたを見たことがなかった。彼はリングに上がるたびにかならず負けていた。負けるためにジムへ来ているんじゃないかと思うくらい弱かった。先輩たちから「きみはボクシングの才能がないからあきらめて他の道へ行ったほうがいいんじゃないか」と言われることがたびたびあった。それでも笹岡くんはボクシングをつづけることを決意した。よほど好きなんだろう、と海夏は思った。ボクシングに対する愛情の深さだけなら彼はだれにも負けないかもしれない。
 晴香は典型的なアウトボクサーだ。すばやい動きで一気に距離を詰めてコンビネーションをたたきこむこともできるけど、基本的にはリングを広く使い、相手選手を軸にするかのようにして左へまわる。そしてカウンターを合わせるタイミングを計りながらジャブとワンツーパンチをだしつづける。手数で相手を圧倒して判定勝ちを狙うという作戦が晴香のもっとも得意としているボクシングだ。自分から前に出て相手を倒しに行くことはあまりない。試合ではKО勝ちが多いけど、それらのほとんどはクロスカウンターがまともにあたった結果である。
 じつをいうと、海夏のファイトスタイルは晴香から学び、盗んだものだった。海夏にとって晴香のボクシングは理想的で、まさに教科書のような存在だった。完璧だと思ったこともある。魅入られたことさえあった。しかし、今回は腕力でまさる男が相手だ。晴香のテクニックとスピードは世界トップクラスだけど、それでも男のパンチを華奢な体で受けとめつづけることはできないだろう。リングの上は狭いから、どれだけディフェンスがうまくてもいつかはかならずあたるようになっているのだ。晴香は近い将来世界王者になれるほどの逸材で、まわりの人たちから天才女子ボクサーと囁かれている存在だけど、それでも男には勝てない。渾身の右ストレートが一発あたっただけで意識を失い、リングに沈むことになるだろう。
 みぞだ、みぞおちを狙え。全体重を乗せた重たいこぶしをその生意気な小娘の人体急所にたたきこんでしまえ! 笹岡くん、相手が女だからといって手心を加える必要はどこにもないんだぞ。遠慮はいらん。殺す気で殴れ! もしほんとうに死んでしまったとしても、これはリングの上でのスパーリングだから事故に過ぎないと主張しよう。
「笹岡くーん、がんばってー!」
 海夏は勇敢な戦士に向かって黄色い声援を投げかけた。これ以上晴香を調子に乗せるわけにはいかないから、何がなんでも笹岡くんに勝ってほしかった。そんな彼女の期待を裏切るかのように、スパーリングの主導権は晴香が握っていた。巧みなフットワークで笹岡くんを翻弄し、目にもとまらぬ高速の左ジャブをくりだしながら自分の距離をたもっている。笹岡くんはジャブをかいくぐって距離を詰めようとしているけど、とびこむタイミングがあわずに顔を打たれてばかりだった。そして次第に腕力でまさる笹岡くんのほうがうしろへ下がっていった。晴香が距離を詰めることによってロープを背負わされた笹岡くんは逃げ道を失い、人間サンドバッグへとすがたを変えてしまった。そこから先は晴香のワンサイドゲームだった。笹岡くんは急所にだけは強打をもらわないようにガードを固めることくらいしかできていなかった。それでも晴香の狙い済ましたパンチはガードの隙間をすり抜けて、笹岡くんの体にダメージを与えていった。右のこぶしでストマックを強打したと思ったら、休む間もなく左のこぶしでレバーを突きあげた。たまらずガードを下げると、今度は左フックで空いた顔面を殴りつけて、間髪入れずに右のアッパーカットで脳を縦に揺らした。晴香のコンビネーションをまともにもらった笹岡くんは力なく膝からくずれ落ち、リングに沈んだ。ピクリとも動かないし、息をしていないようにも見えるし、このまま放っておいたらそのうち死んでしまうのではないかと海夏は思った。
「私に勝負を挑むなんて、十年早いんだからね」晴香は大の字で寝ている笹岡くんを見下ろしながら、くちもとに不敵な笑みを浮かべている。
 このとき、海夏には返り血を浴びている晴香のすがたが悪魔のように見えていた。晴香は「リングの上は戦場と同じなんだよ」と言うことがよくある。それはけっして嘘ではない。少数とはいえ、ボクシングの試合で命を落とした選手は実際にいる。しかしそれは殺人にはならず、事故として処理されてしまうのだ。だからといって出血や骨折のような致命傷を与えていいはずはないと何度も説得をしているのだけれど、「警察に捕まるわけではないんだから、殺す気で殴ってもいいでしょう」と晴香は答える。たしかにボクシングルールは人間を殴ってもいいことになっているけど、さすがに殺してしまうのはだめだろう、と海夏は思っている。
 海夏は思考を切り替えて携帯を手に持ち、救急車を呼んだ。負けはしたけど、それでも笹岡くんは悪魔を相手に勇気を振り絞った戦士だ。手厚い介護を受ける資格を持っている。救急車はすぐに到着した。医者と看護婦のすがたが視界に入り、海夏は軽く頭を下げた。
「いったい何がどうなっているんだ? まさかこのジムは殺人が正当化されているのか?」
 いつもは冷静な医者が感情をあらわにするのも無理はない。同じ日に同じジムへ二度も救急車を向かわせるなんて、通常ではまず考えられないことだからだ。海夏はボクシングとはどのようなルールでスパーリングとはどのようなトレーニングなのかを未体験の人たちにでも理解できるようにわかりやすく説明した。海夏の話が終わると、医者は「わかった」とだけ言って、怪我人を担架へ乗せるように看護婦に指示をだした。そして救急車は国道を走り、病院へ向かった。
「言っておくけど、笹岡くんのほうから喧嘩を売って来たんだからね」
 ようやくリングの上から下りて来た晴香は海夏の顔を見ながらくちを開いた。晴香は自分のおこないに落ち度はないと言いたそうな感じだった。そして晴香はシャワーを浴びて返り血を洗い流し、神妙な面持ちで外へ出て行った。
「あなたに訊きたいことがあるんだけど」海夏は鏡の前で縄跳びをしている練習生をつかまえて、質問を始めた。「いったいどういう理由で晴香は笹岡くんと殴りあうことになったのかしら?」
「笹岡くんは晴香の言動が許せなかった。晴香はいまから数時間前に個室できみを殴っているけど、扉の隙間からその光景を見ていた笹岡くんは頭に血が上り、腸が煮えくりかえったらしい。そして彼は『二度と女性を素手で殴るな!』と晴香に異議を申し立てた。そして晴香はその意見に対して『文句があるならグローブを着けてリングに上がって』と言った。よくある話だけど、どちらがボクサーとして正しい人間なのか、スパーリングで決着をつけるという結論に達したんだ」
「ま、まさか……笹岡くんは私を守るためにその身を犠牲にして……」
「そのまさかだ。うすうす感づいていたと思うけど、彼はきみのことを一人の女性として見ている。狂おしいほどに愛していると言っていたよ。彼はボクシングが好きだからというわけではなく、きみに会いたいからここへ来ているんだ」

 笹岡くんは医者から一週間の入院を勧められた。その話を聞いた海夏は近所のデパートでくだものを買ってから、市立病院へ向かって歩いた。腕力で劣るはずの女性を相手に完全敗北を喫しているにもかかわらず、笹岡くんはそれほど落ちこんではいなかった。顔の怪我はきれいに消えているし、脳に受けたダメージもすでに抜けているとのことだった。すくなくともこのときにはいつもの元気をとりもどしつつあるように見えた。
「来てくれてありがとう」彼は愛する女性のすがたを見て、顔を綻ばせた。
「私のためにごめんね」
 海夏はお見舞い用のくだもの詰め合わせを彼が寝ているベッドのとなりに置いて、柔らかな表情で微笑んだ。そして折りたたみ式の椅子を開き、腰をかけた。リンゴの皮を剥いてあげたかったけど、くだものナイフが見あたらなかった。そのことを看護婦に伝えたら、ナイフを貸してくれた。海夏は軽く頭を下げて、ありがとうと言った。
「きみのせいじゃないよ。ぼくがもうすこし強ければよかっただけのことだと思う」
「相手が女性だからといって手加減をしたでしょう」
「やっぱり本気で殴ることはできないけど、それでも手を抜いたわけではないんだ。この結果は実力の差だと思うよ。いや、才能の差なのかな……」
 晴香にスパーリングで負けたときの話になると、笹岡くんは突然ひどく落ちこみ始めた。そんな話はもう二度としないでほしいと言いたそうな顔をしていた。くだものなんて手に持とうともしなかったし、どう見ても食欲がなさそうだったから、代わりに海夏がりんごを食べた。成熟していて瑞々しかったし、とても美味しいから一人でほとんど食べてしまった。
「ごめん、こんなに食べちゃった。あとこれだけしか残っていないわ」
「きみが買ってきたものなんだから、全部食べてもいいよ。そんなことより、よく来てくれたね。ぼくがきみを一人の女性として見ていることくらい知っているだろう」
「もちろん知っているよ」と海夏はりんごを食べながら答えた。
「ぼくはきみのことが大好きで、狂おしいほどに愛しているんだ」
「もちろんそれも知っているよ」
「ぼくと交際してください」
 笹岡くんはとても真剣な顔をしている。ぼくと交際してくださいというその一言には、今までずっと溜めこんできた熱い想いのすべてが込められているような気がした。彼の気持ちは充分すぎるほど伝わってきたけど、それでも海夏は首を縦に振ろうとはしなかった。
「まさかそれを言われるとは思っていなかったよ」と海夏は答えた。そしてあらかじめ用意しておいた台詞を吐いた。「ボクシングの世界チャンピオンになれるなら考えてもいいけど、なれないようならお断りします」
「事実上それは交際の申し込みを断ったという意味になるよね」
「どうしてそうなるのかしら。今から必死に頑張って、世界王者になればいいだけのことでしょう」
「そんなの無理に決まっているじゃないか。栄光をつかむことができる者はほんの一握りで、あとはみんな挫折をするんだ。才能がない人はリングに沈んで病院へ運ばれることになる運命なんだよ。ぼくのようにね」
 日が沈みかけているし、りんごもなくなっていたから、海夏はそろそろ退散することにした。それに笹岡くんとはこれ以上話したいこともなかった。病院なんてぜんぜん好きではないし、暗い話なんて嫌いなくらいだった。できることなら、あまり長居をしたくはなかった。
「私はもう帰るけど、早く元気をだしてね」

 笹岡くんは死んだ。アパートの自室に内側から鍵をかけて密室を作りだし、外から中の様子をうかがうことができないようにカーテンをしっかりと閉めてから、縄で首を吊って自殺した。家賃の滞納が何ヶ月もつづいていることを理由に大家が合い鍵で部屋の扉を開けたとき、死体が発見された。それは笹岡くんが退院をした三日後のことだった。
 遺書のようなものは見つからなかった。だからいったいどういう理由でみずから命を絶ってしまったのか、海夏には見当もつかなかった。思い当たる節はまるでなかった。なにもわからないまま葬儀が終わり、笹岡くんの遺体は火葬場へ送られた。
 警察は海夏の部屋を訪れた。笹岡くんと最後に話をした人物に質問があるとのことだった。医者か看護婦が最後に話をした人物ではないのだろうか? 海夏は疑問をくちに出したけど、こういうときは病院の人たちを別にして考えるらしい。個人的に話をした人間のなかでいちばん最後になるのは海夏とのことだった。
 どのような話をしたのか? どのような様子だったのか? これから死ぬことを考えているようには見えなかったのか? 瀬戸晴香とのスパーリングと彼の自殺にはなにか深い関係があるのだろうか? 海夏は自分なりによく考えて警察の質問に答えた。晴香とのスパーリングで負けたから自殺をしたわけではないという部分だけはとくに慎重に受け答えた。警察もこれは自殺だと言っているから晴香が捕まる心配はないと思うけど、それでも細心の注意を払って言葉を選んだ。事情聴取はあまり長くはかからなかった。思っていたよりも早く終わり、とくに疑いの眼差しを向けられることもなかった。念のために訊いてみたけど、警察は今回の件で晴香に手錠をかけることはないと答えた。やはり笹岡くんの行いは自殺で、殺人の可能性はないとのことだった。
 その夜、海夏は電話をかけて晴香を部屋に呼んだ。晴香はすぐにやって来た。手にコンビニ袋をぶら下げている。なかには缶ビールがたくさん入っていた。
「死んでしまったものはしかたがないし、暗い顔ばかりをしていてもぜんぜんおもしろくないから、今夜は飲み明かすことにしよう」
 晴香はこんなときでも明るかった。自分の殴った人間がその十日後に死んでいるにもかかわらず、ぜんぜん気にしていない様子だった。晴香の立場になって考えると、自分の手で殺した気にはなれない。まさか自殺をした原因がスパーリングで負けたせいだとは微塵も思っていないだろう。女を相手に無様な敗戦を喫したくらいでみずから命を絶つなんて、自分なら絶対にありえないことだからだ。
「どうして笹岡くんは自殺をしたんだろうね?」海夏はビールを飲みながら疑問をくちにした。
「警察は金銭的な問題を抱えていたことが自殺の原因ではないかと言っていたよ。サラ金からかなりのお金を借りていたらしいし、家賃も払えないくらいの貧乏だったんだって。取り立て屋に追われていたから、逃げるようにして死んだんじゃないかな」
 晴香はじつに美味しそうにビールを飲みながら、まるで他人事のようにしゃべり始めた。
「もし晴香に負けていなかったら笹岡くんは自殺をしていなかったと思うんだけど、私の気のせいなのかな。今後は対戦相手が挫折をしないように打ち負かせ方を考えたほうがいいよ。あくまでスパーリングに過ぎないんだから、心が完全に折れるまえに殴るのをやめたほうがいい」
「なにを言っているの? それは自殺とはぜんぜん関係ないでしょう。私のせいで死んだなんて、そんなの絶対に嘘だからね!」と晴香は感情をあらわにした。
「笹岡くんは自分より何階級もちいさい女に殴り倒されているのよ。みんなが見ているまえでボクシングの才能がない人間だと証明されてしまったことになるわ」
「弱いのは自分のせいで、才能がないのも自分のせいでしょう。彼はまだ若いから他の道で成功できるかもしれないし、だからこそ私は早い段階でボクシングには向いていないということを体で教えてあげたのよ。まあ、死んでしまったあとでこんなことを言っても意味がないけどね」
「あなたに負けた時点でプロボクサーにはなれないし、たとえなれたとしても通用しないでしょう。事実上あなたが彼の夢を力尽くでうばいとり、生きる気力を失わせたのよ」
「女に負けているくらいなんだから、彼がボクシングで成功する可能性は絶望的だよ。そしてそれをみんなが見ているまえで証明したのは私だけど、それでも生きる気力を失わせたというのは大袈裟でしょう。まさか私が殺したことにはならないよ」
「崖から突き落としたとまでは言わないけど、あなたが崖の頂上まで彼を連れて行ったのよ」
「海夏は私を殺人犯だと言いたいのかしら? 裁かれるべき存在だとでも言いたいの?」晴香はビールを飲むのをやめて、真剣な眼差しをしている。「それなら言い返すけど、笹岡くんに止めの一撃を刺したのは海夏なんだからね。すこしは自覚を持ってほしいよ」
「どうして私が殺したことになるのかしら?」海夏は驚いた顔をしながら訊き返した。
「お見舞いに行ったときに交際を申し込まれているはずだけど、もし海夏が承諾をしていたら彼は自殺なんて考えていなかったはずだよ」
「そんなの誤解だよ」と海夏は言った。「交際を申し込まれたのはほんとうだけど、拒否をしたわけではないんだよ。私は彼にこう言ったの。ボクシングの世界チャンピオンになれるなら考えてもいいけど、なれないようならお断りします」
 海夏は記憶をたどり、彼と最後に交わした会話の内容を思いだしながら言った。そのとき彼は絶望的な顔をしていたことを海夏は今でもはっきりと覚えている。「世界チャンピオンになるなんて、そんなの無理に決まっているじゃないか」と彼は言っていたけど、まるで奈落の底に突き落とされたときと同じ気分で重たいくちを開いたように見えた。彼にとっては、海夏の台詞は自殺を決意させるのに充分すぎるほどの効力を持ちあわせていたのだ。
「愛する者にそんなことを言われたら、死ぬしかないだろうね」晴香は喋りながらふたたびビールを飲み始めた。右手でポテトチップスを食べながら、左手にアサヒスーパードライを持っている。「あなたはその調子で何人の男を自殺へ導いているの?」
「そ、そんな……ま、まさか、私が彼に自殺を決意させてしまったの……」
「もちろんそうだよ」と晴香はくちもとに笑みを浮かべながら言った。「交際に同意をするだけで彼は死ななかったと思うし、せめてその豊満な双乳を揉ませてあげていれば失われた気力もみるみるうちに回復したんじゃないかな。おっぱいが嫌ならキスをしてあげるだけでも自殺を阻止することくらいならできたはずだよ。もっと言うなら、手を握ってあげただけでもみずから命を絶つようなことにはならなかったかもしれないね」
「そんなに単純な問題なのかしら?」
「男なんて信じられないくらい単純明快な生き物だよ。そのくびれた体を抱かせてあげるだけで彼は死ななかったはずだけど、どうして救うことができたはずの命をみすみす失わせたの?」
 言われてみればそうかもしれない。ほんのすこしだけでいいから彼の愛を受け入れることさえできていれば、尊い命を失うことはなかった。その気になりさえすれば彼を救うことはできたけど、だからといって好きでもなんでもない人に抱かれたいとは思わないし、体を穢されるなんて絶対にお断りである。べつに死んでいい。冷たいようだけど、是非死んでほしい。死ぬまえに一回くらいやらせてほしいと言われても困るし、やらせてくれるなら自殺を考えなおすと迫られても上着を脱いでボディラインを見せてあげたいとさえ思わない。そんなものは迷惑極まりない話だ。むしろ早く死んでくださいと言いたい。きみは童貞のまま死ぬ運命なんだよ、と。きみのような能力のない男に私のくびれた体を抱けるはずがないじゃないか。いまきみの目のまえにいる女は絶世の美女なんだぞ。まさか釣り合うとでも思っているのかい? と言いたくなってくる。せめて彼に風俗へ行くお金があるならよかった。いろんな男たちからさんざん穢されている売女でもかまわないというのであれば、とりあえず豊満な体を抱きしめながら心地よい射精を体感することができた。それだけでも自殺をするようなことにはならなかったはずである。やはり彼がみずから命を絶った理由はお金がないからということになるだろう。
「彼はここで死ぬ運命だったのよ」と海夏はビールを飲みながら答えた。
「私と海夏の二人掛かりで笹岡くんを殺したという考え方もできそうだね。まず私が笹岡くんの肉体的な部分を死に追いやって、それから海夏が精神的な部分に止めを刺したのよ。私が彼を崖の頂上まで連れて行ったんだけど、突き落としたのは海夏なんだからね。しかもあなたは手に命綱を持っていたにもかかわらず、あえて使わなかった」
「彼のことは残念だったとしか言いようがないわ」
 海夏は四本目のビールのふたを開けて、くちもとへ運んだ。ポテトチップスとピーナッツを食べながら、じつに美味しそうに飲んでいる。このとき、海夏はすでに数日前の出来事を思いだすことすらできないくらい酔っていた。意識が朦朧とし始めているし、体が宙に浮いているのではないかと錯覚をするくらい心地よい気分だった。
「そもそもどういう理由で笹岡くんとスパーリングをするという話になったんだっけ?」
「数日前にも言ったと思うけど、彼のほうから喧嘩を売って来たんだからね」
「どういう経緯だったっけ?」
 いま、海夏は四本目を空にしたところだった。ビールならまだたくさんあるけど、過去の経験からこれ以上飲むのは危険性が高いと判断した。それにそろそろ眠たくなってきた。なんだかまぶたが重たくて、目を開けているだけでも辛くなってきた。
「海夏の対戦相手が決まって、一緒に録画を見たよね。そのとき私は個室であなたを殴ったんだけど、笹岡くんはその光景を扉の隙間から見ていたらしいのよ。それで彼はクレームをつけてきたの。『もう二度と素手で女を殴るな!』って怒鳴りつけられたわ。それで私は頭にきたからグローブを着けてリングに上がるように言ったのよ」
 ああ、そうだった。たしかそんな話だった。それで晴香が勝って、笹岡くんが死んだんだ。
 個室で晴香に殴られたことに対する怒りや憎しみは、いつの間にかどこかへ消えていた。不意に腹を殴られて悶え苦しんだことなんかより、知りあいが死んでしまったというその事実のほうがよほど重大だからだ。いまさら晴香に報復を果たしたいとは思わない。そんなことより、もう眠たい。時計の針は深夜の二時をまわっているし、いつもなら布団のなかにもぐって目をつむっている時間帯である。そろそろ就寝しないと、生活のリズムが乱れるかもしれない。
「私はもう寝るけど、脱がさないでね。たとえ寝ているときに『暑い』と言ったとしても、絶対に脱がせたらだめだよ。次は怒るからね」
「私にペニスさえあれば、海夏のおまんこを滅茶苦茶になるまで掻きまわしてあげるのに」と晴香は自分の股間を見つめながら言った。
 睡眠中に性的な被害を受けたくはないから海夏は寝ることをあきらめて顔を洗い、水を飲んでアルコールを中和した。熱いコーヒーでも飲みたい気分だったけど、お湯を沸かすのがめんどうだった。けど冷蔵庫のなかに缶コーヒーは一本もないし、こんな夜中に外の自動販売機まで歩くと変質者に襲われる可能性があるから、冷たいポカリスエットで我慢をすることにした。
「寝るんじゃなかったの?」と晴香は訊いた。
「性器を掻きまわすとまで言われているんだから、寝られるはずがないでしょう」
「まさかとは思うけど、処女じゃないよね?」
「もちろん処女ではないよ」
「相手はどんな人で、何歳のときだったの?」と晴香は興味津々な顔をしながら訊いた。
 たぶん晴香も処女ではないと思うけど、自身をレズビアンだと明言している人にそれを確認するのは変な感じがするから海夏はあえて訊きだそうとはしなかった。晴香は何歳のときになにがきっかけで同性愛に目覚めたのだろうか? 男に抱かれてみたいと思ったことは一度もないのだろうか? 疑問はたくさんあるし、それらについて興味がないと言えば嘘になるけど、なんの意味も持たない議論が延々とつづけられるだけのような気がするから今夜はあえてなにも訊かないことに決めた。
「異性と初めて寝たのは学生のときだよ」と海夏は答えた。
「もっと詳しく聞かせて。とくに相手の男性については、出来る限り鮮明に教えてほしいよ」
「夜が明けるくらい長い話になるかもしれないよ。それに私はもう眠たいから、途中までしか話すことができないかもしれないわ」
 これだけ飲んでいるのに、晴香はまだぜんぜん眠たくないらしい。夜が明けるまで話がつづいたとしてもかまわないとのことである。
 親友の晴香がどうしても聞きたいと言うから、海夏は眠気を我慢してまで過去を打ち明けることに決めた。それに海夏は学生時代を想い返すことが嫌いなわけではなかった。


 つづく

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あなたの作品が2017年12月04日付の[小説] R18男子に人気ランキング 46 位に入りました!
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作品ID:8973009
[体験版その2] うみなつのボクシング ―運命のデビュー戦―
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[体験版2] うみなつのボクシング ―運命のデビュー戦―

 まだ酒が抜けていないし、軽い頭痛も感じられていたので、あまり過酷なトレーニングを行うことはできなかった。だからといってこのまま何もせずに貴重な一日を終えるわけにはいかないから、海夏はコンディションを調整するためにシャドーボクシングを始めた。全身鏡に映る自分のすがたを眺めながらジャブとワンツーパンチを繰りだしている。
「みんなおはよう、今日も元気にがんばろうね!」
 玄関の扉が開き、ジムのなかに明るい声が響き渡った。うしろを振り向くと、一人の女性のすがたがあった。海夏の顔を見ながら微笑んでいる。彼女の名前は瀬戸晴香といった。海夏とは無二の親友である。二人はボクシングを通じて知りあい、分かりあえた。
「昨夜は飲み過ぎたね。海夏が途中で意識を失うから、私が一人でベッドまで運んだのよ」
 ロードワークから帰ってきた晴香は汗にまみれたシャツを脱ぎ捨てて、陽気にしゃべりながら着替え始めた。海夏なら間違いなく更衣室に移動してから着替える。スポーツブラとはいえ、異性に下着姿を見られているのになんとも思わない女性は晴香くらいである。
「変なことを訊くようだけど、私は何時に気絶をしたのかしら?」
「やっぱり覚えていないのね。私の記憶にもすこしだけ曖昧な部分があるんだけど、たしか深夜の二時から三時のあいだだったと思うよ。そんなことより海夏もロードワークに行ったらどうなの。早く体から酒を抜いたほうがいいんじゃない」
 晴香は両手にグローブをつけて、パンチングボールを殴り始めた。きらびやかに汗を流しながらジムのなかに軽快な音を響かせている。
「いつの間にか消えていたような気がするんだけど、晴香は何時頃に帰ったのかしら?」
「残っていたビールをすべて空にしてから退散したよ。たしか明け方の五時くらいだったと思う」
「いったいどういう理由でお酒を飲むという話になったんだっけ?」
「私の祝勝会だよ。奢ってくれてありがとう。ごちそうさまでした」
 そうだ、晴香は勝ったんだ。後楽園ホールで宿敵を倒し、チャンピオンへの挑戦権を手に入れた。次はタイトルマッチだ。
「大事な話があるんだけど」と海夏は言った。晴香はパンチングトレーニングに励んでいる最中だったけど、どうしても訊きたいことがあったから肩を叩いて振り向かせた。「どうして帰る前に私を丸裸にしたのかしら? 衣服だけではなく下着まですべてを剥ぎとっているでしょう」
「海夏が魘されるようにして『暑い、暑い』って言うから脱がせてあげたんだよ」
 魘された覚えはなかった。暑いなんて一度も言っていないような気がする。それでも晴香に自分の記憶が正確だと主張されたら途中で意識を失っている海夏に反論することはできない。たとえそれが嘘で塗り固めた作り話であったとしても、いまは晴香の発言のすべてが事実として取り扱われてしまうという恐ろしい状況なのだ。
 晴香は筋金入りのレズビアンである。異性を愛することができない。女体を蹂躙することによって快楽を得るタイプの同性愛者だ。そのことは海夏も知っていた。知っていながら友だちになった。晴香は「海夏にだけは手を出さないことにするね」と言ってくれているし、それを信じていまの関係をつづけている。しかし泥酔している状態だったとはいえ、不覚にも脱がされてしまった。しかも下着まで剝ぎとられている。それでも晴香は「膣になにかを挿れたわけではないから約束を破ったことにはならないよ」と主張した。なにも挿れられていないのはほんとうのことである。性器にいたずらを受けた痕跡は見あたらなかったし、乳首を指先で弄ばれたり舌で転がされたような気もしない。全裸にされてしまったことに違いはないけど、性的暴行を受けたわけではなかった。
 海夏が思うに、晴香ほど美しい人はまずいない。小柄で背は低いけど、表情が生き生きとしていて愛嬌がある。白い肌は太陽の光を受けると透き通るようにかがやき、光沢のある栗色の髪は肩まできれいに流れている。ひとつの特徴として、晴香はしゃべるのが好きだ。陽気な性格をしている晴香は練習中もだれかに話しかけることが多く、いつも周囲に明るい笑顔をふりまいている。そしてそれに循環するかのように、まわりのみんなも晴香に好感を抱いている。晴香は美しいだけではなく試合の戦績もずば抜けて優秀だから尊敬の眼差しを向けられることもたびたびあった。
 これは衣服の上からではよくわからないことなのだけれど、晴香のおっぱいは見ため以上に大きい。細身で着痩せするタイプだからあまり肉感的には見えないというだけのことで、じつをいうと、晴香は豊満な双乳の持ち主である。はち切れんばかりの巨乳というわけではないけどそれでもしっかりと膨らんでいるし、お尻のほうも上を向いて健康的に張りだしている。にもかかわらず、余計な脂肪は一切ない。脚は細くて長いし、脇腹の贅肉も削げ落ちている。晴香もまた、ボクシングのおかげで究極の肉体美を維持することができている女性の一人だった。とくに羨ましいのはボディラインだ。晴香の腹筋はみごとなまでに鍛えあげられていて、スパーリングをするときは美しいシックスパックを見せびらかすようなすがたでリングに上がることがたびたびある。そして得意のアウトボクシングで見る者を魅了する。
 晴香はいますぐにでも世界戦のリングに上がることができるのではないかと思うくらいボクシングがうまい。プロのリングで無敗だし、今年か来年にでも世界チャンピオンのベルトをこのジムに持って来るような予感をさせてくれる。仲間たちから大きな期待を寄せられている逸材で、晴香のことを未来の世界王者と呼ぶ人もすくなくはない。海夏にとっては、晴香は友だちでありながらボクシングの指導者でもある。歳は海夏のほうがひとつだけ上だけど、ボクシング歴は晴香のほうがずっと長い。初めてここへ来たときにルールの説明をしてくれたのも晴香だった。海夏はグローブの選び方やバンテージの巻き方から晴香に教わっている。
 自身をレズビアンだと明言していることに関してはとくになんとも思っていない。精神科へ連れて行く必要はないと判断している。脳外科の先生にお願いをして一度頭を開いてもらうという方法もあるけど、それはさすがに大袈裟ではないかと海夏は思っている。男に近寄って来てほしくないからあえて自分をレズビアンに見せかけているだけかもしれないし、じつをいうと、みんなと同じように異性を愛することができるかもしれない。けど今はボクシングの世界王者になるというその夢だけを追いかけていたいから、交際を申し込んでくる男なんて邪魔な存在以外の何者でもないのだ。しかし晴香は何年も前から自分のことを「私はレズビアンだよ」と明言している。晴香が男性とデートをしているすがたを目撃した人はいないし、かといって女性と一緒にラブホテルに入って行ったという話も聞かない。アブノーマルなのかどうかを知りたいと思う気持ちはあるけれど、決定的な証拠が出てこないから分からず終いだった。
 以前二人だけで遊んでいるとき、晴香に性的な部分を触られたことがある。とはいっても、うしろから脇の下に腕を通されて胸を縦横無尽に揉みしだかれただけだけど、仲のよい友だち同士ならそのくらいレズビアンでなくても充分にありえる言動だと海夏は思った。そのとき晴香は豊満な双乳をまさぐりながら「海夏のおっぱいは柔らかくて気持ちいいね!」と弾けるような笑顔でよろこんでいた。もちろん海夏は「やめて!」と言ってささやかな抵抗を見せた。しかし学生のときにも女の子同士で胸を触りあっている生徒は普通にいたし、それと同じような感覚だと思えば晴香をレズビアンだと証明するための決定的な証拠にはならないような気がした。そして次第にそんなことはもうどうでもいいやと思うようになった。基本的には体を鍛えたいからジムに通っているだけだし、知らないところで晴香がどこかの女を卑猥に蹂躙したとしても自分にはぜんぜん関係のない話ということでかまわなかった。指導者がレズビアンであろうとなんだろうとボクシングを教えてくれるならそれだけでいいやという結論に達した。
 晴香にはふたつの夢がある。ひとつはボクシングの世界王者になることだ。試合に勝ちつづけて莫大なファイトマネーを稼ぎだし、だれもが羨む豪邸を手に入れて、優雅で贅沢な日々を送りたいとのことである。それは晴香にかぎらず、ボクサー全員の憧れといっても過言ではない。まだデビュー前の海夏でさえチャンピオンベルトを腰に巻いている自身のすがたを脳裏に思い浮かべたことがある。だからおそらくタイトルマッチを控えている晴香はベルトを手に入れることばかりを考えていると思う。たぶんそれ以外のことなどほとんど頭にないだろう。だからこそ晴香は高校もすぐに辞めてしまった。学問に未練はないらしい。
 ふたつめは男性になることである。それは男のように強くなりたいという意味で言っているわけではない。男としてプロのリングに上がりたいという意味で言っているわけでもない。とても信じられない話なのだけれど、晴香は自分の股間にペニスが生えてくる日を願っているのだ。手術が無事に成功したとき、女から男になることができるらしい。それから可愛い女の子を探しだし、膣にペニスを挿れてみたいとのことである。もちろん海夏は普通の性癖をしているノーマルな女性だから、性転換手術を成功させて女を犯したいと思ったことなど一度もない。今まで健全な恋愛ばかりをしてきた海夏にとっては、晴香の言っていることがわるい冗談にしか聞こえていなかった。真に受けるのも馬鹿らしいと思うことさえあった。けど晴香は真剣な顔をしながら美しい女性に中出しをするのが夢だと言うから、笑うのはさすがに失礼にあたるのではないかと海夏は思った。恋愛は個人の自由だし、異性の好みは人によってさまざまだ。女として生まれて来たからといって、かならずしも男を愛さなければならないわけではない。日本は同性結婚が認められている国ではないけどレズビアンに対して有罪判決が言い渡されるわけではないし、近い将来晴香が性転換手術を成功させて絶世の美女を卑猥に蹂躙したとしても、自分に害が及ばないならかまわないと海夏は思っている。
「私は泥酔して深夜に意識を失っているんだけど、いったいどういう理由で犯さずに帰ったのかしら? その気になれば性的ないたずらくらい簡単にできたはずだよね?」
「もしほんとうにそんなことをしたら、私たちの友情に亀裂が入るかもしれないでしょう」と晴香は答えた。「話が変わるんだけど、海夏のデビュー戦の相手が決まったらしいよ。その様子だと、まだなにも聞いていないよね」
 海夏は試合の日を待ち望んでいた。プロライセンスを取得したのは最近のことだけど、海夏はデビュー戦を勝利で飾るために日々過酷なトレーニングに耐えている。晴香がボクシングに関して嘘を言うはずはないから、これでやっと念願のプロデビューだ。後楽園ホールで晴れ晴れしいすがたを披露するのはひとつの憧れだったから、海夏は心が躍るような気分だった。
「相手はだれ? 試合はいつなの?」と海夏は目の色を変えて訊いた。
「今朝会長から聞いた話なんだけど、対戦相手は東京に住んでいる人で、名前は新山さんっていうらしいよ。試合は三ヶ月後だから準備をしておけだって。とりあえず、これから新山さんの過去の試合を録画で見るというのはどうかな?」
 晴香からの情報では、相手は次の試合でプロ三戦目とのことだった。二試合分の録画を晴香が持っている。見ないわけにはいかない。相手の長所と短所が浮き彫りになるかもしれないし、それに合わせて作戦を考えることができるからである。試合展開を有利に進めるためには相手選手の特徴をつかむ必要があるのだ。
 二人は部屋を移動して、録画を再生した。晴香から聞いていたとおり、新山さんは典型的なインファイターだった。小柄で背は低いけど、パンチが重たそうに見えた。女性にしては腕力のあるほうで、空振りをするたびに風を切る音が客席にまで聞こえてきそうだった。繰りだすパンチのすべてが大砲である。おそらく一発まともにもらっただけで意識を断ち切られることになるだろう。けど相手選手のアウトボクシングのほうが試合の運び方が巧みで、新山さんは判定で負けてしまった。自慢の剛腕は最後の最後まで当たらず終いだった。
「……デビュー戦で負けているんだね」と海夏は録画を見ながらつぶやいた。
「そうだよ。きっと才能がないんだろうね」と晴香は液晶越しに負けた選手を嘲笑いながら言った。
 けっして弱いというわけではないけど、新山さんはまだインファイターとしての完成度が低い。脇腹に贅肉がついているから練習量が不足しているようにも見えた。ジャブを掻い潜ってふところへ飛びこもうとしているけど、ダッシュ力が足りないからうまくいかない。新山さんの追い足より対戦相手の逃げ足のほうが断然速いのだ。ディフェンスに関しても疎かに見えた。自分の距離へ持ちこむことさえできれば必殺の剛腕をたたきこんで逆転KО勝ちを狙えると思うけど、ジャブとワンツーパンチで顔を打たれてばかりだった。パンチをよけることはおろか、ガードすら満足にできていない。それでも必死にこぶしを振りまわしているけど、空を切るばかりだった。虚しいことに一発もあたらない。そして最終的には判定負けである。試合が終わったとき、新山さんの顔は真っ赤に腫れあがっていた。殴られ過ぎて片目が潰れているし、口や鼻から出血までしている。新山さんにとっては最悪の試合だったにちがいない。こうして彼女のデビュー戦は苦い思い出となってしまった。この屈辱だけは生涯忘れることはないだろう。
 それでも外見だけを見るとなかなか強そうである。肩幅が広くて、女性にしては驚くほど筋肉質で、全体的にがっしりとしている。たくまし過ぎるといったほうがいいかもしれない。とても同じ女とは思えないほどである。筋力トレーニングに重点を置いているためだと思うけど、腕も足も丸太のように太い。とくに腹筋の割れ方が尋常ではないように見えた。みごとなシックスパックで、どんなパンチでも軽々と跳ねかえすことができそうである。おそらくボディブローを何発あててもぜんぜん効かないだろう。異常なほどタフだから、KОで倒すのは至難の業だ。勝つためにはアウトボクシングに徹底するしかない。
「どう、勝てそうかな?」晴香は録画を停止して、海夏の表情を窺っている。
 過去の試合を見た感じでは、判定で勝つのはそれほどむずかしくはなさそうだった。パンチ力が高いのは認めるけど、それ以外に恐れるものはほとんどなにもない。動きが遅いし、どれだけ重たいパンチでもあたらなければなんの意味もないのだ。海夏はすべてのパンチをよけつづけて判定まで逃げ切れる自信があった。この程度の相手に負けるようなら引退を宣言してもいいとさえ思った。いや、自殺を考えてもいいかもしれない。
「たぶん私が勝つと思うよ」と海夏は答えた。「たいしたインファイターではなさそうだね」
「私も海夏が勝つと思うけど、新山さんには一発があるから気をつけてね。もしまともにもらったら一撃で意識を断ち切られる恐れがあるから、絶対にガードを下げたらだめだよ」
「うん、わかった。両腕で顔を守りながら戦うことにするよ。それよりひとつ気になったことがあるんだけど、これはフェザー級の試合で、新山さんはフェザー級の選手だよね? 私はライト・フライ級だから五階級の差があるんだけど、いったいどういう話になっているのかしら?」
「フェザー級で二連敗をした新山さんは勝つためには減量をしなければならないということに気づいたのよ。ほんとうならデビュー戦のリングに上がるまえに知っておかなければならないことなんだけど、もしかしたら選手とセコンドの両方の頭がわるいんじゃないかな。たぶんいまごろ脇腹の贅肉を削ぎ落とすために必死になっているはずだよ」
「八キロ以上も落とさなければならないなんて、壮絶な減量苦ではないのかしら?」
 海夏は減量で苦しんだことがなかった。このままライト・フライ級で戦うにしても、まだ一キロ足りない。彼女はむしろ体重を増やすことに苦労しているボクサーである。もう一階級上げてフライ級の試合に出たいと思っているのだけれど、それはまだ実現できそうになかった。
「もちろん苦しいと思うよ。私も体験したことはないけど、想像を絶するんじゃないかな。いま五十七キログラムもあるのに、四十八・九九キログラムまで落として海夏と戦うことになるわけだから、試合中にも減量の影響が出るかもしれないね」
「前日計量だよね?」と海夏は訊いた。
「私のデビュー戦のときは前日だったよ」と晴香は答えた。
「計量が終わってから試合が始まるまでかなりの間隔があると思うんだけど、八キロくらいならすぐにもとへもどせるのかしら? ということは、私は五階級も上のパンチを受けなければならないの? たぶんガードの上からでも効くよね?」
「食べたり飲んだりすることによってある程度なら回復するはずだけど、万全の状態でリングに上がることはできないと思うよ。それでも新山さんのパンチが重たいことに違いはないけどね」
「五階級も上か……どうりでパンチが重たそうに見えるはずだよ」
 海夏はまだそこまでの体重差を経験したことがなかった。いつも階級の近い選手とだけスパーリングをしている海夏にとっては、五階級差は未知の領域だった。そこには多少の恐怖心さえあった。あの剛腕を急所に叩き込まれたらどうなってしまうのだろうか? 右フックが顎をかすめただけで膝に力が入らなくなるのだろうか? もしストマックやレバーをアッパー気味に突きあげられてしまったら、リングの上でのた打ちまわることになるのだろうか? あれほどのパンチ力だから、体のどこにあたったとしても深刻なダメージを負わされることになるだろう。細腕で固めたガードなんて、すぐに破壊されてしまうかもしれない。まるで発泡スチロールをハンマーで殴りつけるみたいに。
「会長から聞いた話なんだけど、相手陣営のほうから海夏を指名してきたんだって。新山さんはあなたとの対戦を熱望しているとのことだよ」
「いったいどういう理由で私との対戦を熱望しているのかしら?」
「もしもの話なんだけど、海夏はデビュー戦から二連敗したらどうする?」
「もしほんとうにそんなことになったら自分にはボクシングの才能がないと認めざるを得ないかもしれないね。それでもつづけるなら次こそは絶対に勝ちたいと思うし、それに向けてのトレーニングを始めるよ。それでも負けるようならあきらめて他の道へ行こうかな」
「私だったらデビュー戦で負けた時点で自殺を考えるけど、新山さんなら階級を下げて戦うんだろうね。しかも限界ギリギリまで落とそうとしているわ。新山さんはいま崖っぷりに立たされている状態だから次の試合だけは何がなんでも勝ちたいと思っているはずだけど、勝つためにはいちばん弱い相手と試合をすればいいと考えているみたいだよ」
「私がいちばん弱いボクサーだと言いたいのね」納得できるはずがないことを言われて、海夏は不満気な顔をしている。「たしかに私はけっして強そうに見えるタイプではないけど、ボクシングの勝敗は外見で決まるわけではないわ。もちろん腕力がすべてではない」
「顔立ちは業界のなかでもいちばん端正に整っているし、ウエストは驚くほど細くてみごとにくびれているし、しかもはち切れんばかりの巨乳だし、新山さんにかぎらず、だれの目にも海夏がもっとも弱く見えるボクサーだと思うよ。けどボクシングの勝敗は強面で決まるわけではないということを証明すればいいだけなんじゃないかな。さっきも言ったけど、私はあなたが勝つと思っているからね」
 おそらく新山陣営は外見を見ただけで海夏を最弱のボクサーだと決めつけている。相手に理由を訊ねたわけではないけど、それはたぶん巨乳のロリ顔だからだ。簡単に言うなら、おっぱいが大きいからなめられているという意味になる。しかしその認識は試合が始まってから十秒も経たないうちに間違いだと気づくことになるだろう。減量苦の有無などあまり関係がない。海夏はたとえ新山さんがベストコンディションであったとしてもボコボコにできる自信があった。可哀想だけど、敵の復帰戦が実ることはない。新山さんは天才と凡人の差を見せつけられて無残にもリングに沈み、引退を決意することになるだろう。
「ねえ、晴香。これからスパーリングをしよう」
「スパーリングならつきあってあげてもいいけど、そのまえにロードワークに行ってきなよ。まだ昨夜の酒が抜けていないよね?」
「ジムまで走って来たから大丈夫だよ」
「腹のなかに残っているビールをすべて外へ出さないと、スパーリングなんてできないでしょう。私は自分の練習をしながら待っているから、早く行きなよ」
「私はいますぐに暴れたい気分だから、グローブをつけてリングに上がって」
 念願のデビュー戦が決まり、海夏は胸からこみあげてくる熱い気持ちを抑えることができなかった。いますぐに生身の人間を殴りたくてたまらない。そうでもしないと気が狂いだしそうだった。
「気持ちはわかるけど、あなたはまだ体に酒が残っている状態なんだから満足に戦うことができないでしょう。知っていると思うけど、酔っているときに殴られたらたいへんなことになるんだよ。ものすごく効くんだからね」晴香は興奮状態の海夏をなだめるようにして言った。
「対戦相手の試合を見たせいだと思うんだけど、なんだか体がうずうずするのよ。早くリングの上でだれかを殴りたくてたまらないわ」海夏はロードワークへ行こうともせずに、しゃべりながら素振りを始めた。なにもない空中に向かってジャブとワンツーパンチを繰りだしている。「もう充分に体があたたまったよ。さあ、私とスパーリングをしよう!」
「こんなにやさしく教えてあげているのに、理解できないみたいだね」晴香はすばやい動きで海夏のふところへ飛びこみ、身をかがめて、こぶしを硬く握りしめた。「くちで言ってもわからないなら体で教えてあげる」
 まさかリングの下で殴りかかって来るとは思っていなかったから、海夏はいつもより反応が遅れてしまった。不意打ち同然だったし、よけることはおろかガードすら間にあわない。そして、プロの世界で徹底的に鍛えあげられた鉄のこぶしが油断をして緩みきっている海夏の腹筋に突き刺さり、鈍い音を立ててめりこんだ。内臓が沈没したのではないかと思うほどの凄まじい衝撃を受けて、海夏は呼吸すら満足にできない状態に陥ってしまった。その場に倒れて体を休めたかったけど、晴香が寝かせてくれなかった。腹に深々と埋まっているこぶしを引き抜いてくれずに、前のめりに倒れかけている海夏の体を腕の力だけで支えているのだ。
「どう、ビールっ腹を叩かれた気分は? まさに地獄って感じだよね。そんなに苦しそうな顔をするくらいなら素直に言うことを聞いていればよかったんだよ」
 さらに深く苦しませるためだと思うけど、晴香は手首の回転運動によってこぶしを左右にひねり、内臓をえぐり始めた。晴香がこぶしに力を入れるたびに胃袋が渦上に沈没し、海夏は息も絶え絶えだった。そして海夏は体内に酸素を取り入れることができずに、苦悶の表情を浮かべながら逆流する胃液を吐きだしてしまった。せめてグローブをつけてくれているならここまで深い苦しみを味わうことにはならなかったと思うけど、油断をして緩みきっている腹を素手で強打されてはひとたまりもない。しかも的確に急所を狙った渾身のボディアッパーなのである。たとえベストコンディションであったとしても耐えられるはずがない。軽い食事とはいえ一時間くらい前にものを食べているし、しかもまだ昨夜の酒が抜け切っていない状態だから悶絶必死だ。いっそのこと、死んでしまったほうが楽になれるのではないかと海夏は思った。
「もう二度と私に逆らったらだめだからね」
 晴香がこぶしから力を抜いたとき、海夏は体の支えを失って、床の上にくずれ落ちた。両腕で腹部を抱えるようにして押さえながら、天井に向かってお尻を突きだすような体勢で悶えている。
「立てるようになったらロードワークに行くんだよ。もし行かなかったら殺すからね」
 晴香が部屋からすがたを消してからも、海夏はしばらく立ちあがることができなかった。うずくまりながら呼吸を整えるだけで精一杯である。海夏にとっては、晴香の言動はあまりにも理不尽すぎた。一時の感情で指導者に逆らったことは認めるけど、だからといってここまで深く苦しませる必要はないだろう。下の階級とはいえ、プロボクサーが素手で人間を殴れば命を落とすことだってあるんだぞ。ボディブローのダメージが抜け始めて思考が正常に働くようになったとき、海夏は頭に血が上っていた。そして次第に腸が煮えくり返り、殺意が芽生えた。すこしくらい強いからといってあまり調子に乗らないでいただきたい。相手は指導者という立場だから今までは大目に見てきたけど、今回ばかりは許さないぞ。全身全霊をかけてボロ雑巾にしてやる。逃げられないようにコーナーに追いつめてから内臓が沈没するまで悶絶ボディブローを連打でたたきこみ、顔が原型を留めなくなるまで殴りつづけて、網膜剥離にしてやる。瀬戸晴香、貴様だけは生かして帰さん。

 つづく

 予告ページはこちら
 http://www.dlsite.com/maniax/announce/=/product_id/RJ207358.html

 ピクシブはこちら(縦書き)
 https://www.pixiv.net/member.php?id=18027316

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