大晦日、早朝。
巨大逆ピラミッドに、人々が吸い込まれていく。その横には、真夏のような熱気を放出する集団が並んでいる。
コミックマーケット。日本最大の同人誌即売会であり、年に二度のヲタクの祭典でもある。プロも含めた同人作家はこの日のために寝る時間を削って同人誌を作り、一般参加者はその作家の魂とも言える同人誌や同人ソフト、はたまたグッズを我がものとするため、宝の地図とカタログを胸に、今日の戦略を立てている。

「……はぁ」
大きなキャリーバッグを引きずりながら、俺は人の流れに乗っていた。周囲のざわめきが右耳から入って左耳に抜けていく。その至近距離からのざわめきは遠くからきこえてきていた。

「……はぁ」
また、大きなため息が口から出てくる。その白く凝固した水蒸気が、この広い会場の一部になり、消えていった。
机の上にはパイプイスが二つ。準備のためにそのイスを掴むと、鉄パイプの冷たさが伝わってくる。その冷たさが、空っぽの体の中にしみこんでくる。周囲には、ざわめきが漂っている。

「見本誌、おねがいしまーす」
巡回に来るスタッフが、そう告げる。段ボールの中にある、できたて同人誌。その裏表紙に見本誌票を貼り、手渡す。

「はい、確かに。それでは、良いコミケを!」
表紙には、かわいい女の娘が一人。こちらを見てほほえんでいる。その同人誌の置いてある机の向こう。二つ並んだイス。座る俺。しかし、いつもと違うことが一つ。隣に座る人が、いない。

会場内から拍手が鳴り響き、イベントの開会を告げる。それと共に、外からこちらに向けて、地鳴りにも似た音と、人肉雪崩が押し寄せていた。冬だというのに、汗まみれの雪崩が 、会場に入ってくると同時に、熱気が迫ってくる。まぁ、こちら側は男性向けとは言っても、ああいう雪崩の構成員が欲しがるようなものとは違う、マイナーサークルだからそこまで気にしなくても良いんだけど。それでも、この熱気、興奮、いつ見ても圧倒される。これだけの人を熱狂させるものが、ここ、コミックマーケットにはあるのだ。

「おい? おーい!」
遠くから声がする。聞き馴染みのある声がする。ここ数ヶ月前まで毎日聞いていたような、それでいて、それからは一切聞かなくなったあの声が……。
「聞こえてるのか~?」
いつから聞かなくなったんだろう。検討がつかない。気がついたら、いなくなっていた。いつまでも隣にいると思っていたのに。
「良い加減にしろよコラ!」
ドスの聞いた声が響く。目の前には、がたいのいい男が一人。
「……なんだ武か」
「なんだはねえだろなんだは。4ヶ月ぶりじゃねえか」
「昨日も、おとといも、ずっとSkypeでしゃべってたじゃねえかよ。全然懐かしい気持ちがしねえよ」
「それと、コミケでは本名で呼ぶな! イメージってもんがあるだろイメージってもんが」
「はいはい分かりましたよ綾小路麗先生?」
こういう軽口が、沈んでいた心をわずかにではあるが浮上させる。
「んで、今日は何の用だ?」
「用って言うほどでもないけど、まぁ挨拶回りだな。ほれ、うちの新刊」
「ちょっと待ってろ、今こっちの新刊出すから」
「あ、スマンが知り合いのも渡したいから二冊な」
こいつは俺の同人仲間だ。こんなクマ見たいな図体から、キャッピキャピな少女コミックを描きやがる。
仲間内からは「体はクマ、頭脳は乙女」とまで言われている。最近は本人もそれを認めつつある。
「相変わらずの画風だな」
「お前もな」
お互いの同人誌を交換しあう。同人界隈の名刺交換みたいなものだ。友達に自分の作品を読んでもらうのにぴったりである。
「ん?」
「どうした?」
「おまえ、変わった?」
「何でだよ」
「いや、絵はいつも通りなんだけど、話がなぁ……」
こうやって良いところも悪いところも全てはっきり言ってくれるのはコイツの良いところだ。そのアドバイスのおかげで、スランプも乗り切って来れたのは事実だ。そんなアドバイスも、流れていく。
「展開も団子になってるし、 ……って聞いてるか?」
うつろな顔が浮かぶ俺が、なにか答えようとする。が、言葉が出てこない。空虚な顔をしていた。
「あ、ああ、聞いてる聞いてる。で、何だっけ」
やっぱり聞いてないじゃん…… といいながら、アドバイスをしてくれる。確かに、的を射ている……ような気がする。さすがプロを目指していることもあり、はっきりと、それでいてわかりやすく教えてくれている。しかし、なんだか分からないのである。頭に入ってこないし、言っていることがなかなか理解できない。
「あー、多分スランプ的ななにかだろ。大丈夫大丈夫」
「まぁ、大丈夫って言うならいいけど…… おまえの作風ホントに変わったぞ?」
「わかったわかった! それじゃ、また来年な!」
心配するコイツを無理矢理追い返し、ため息をついた。また、視線を向こうへ向ける。ため息は前方にはき出される。ぼんやりと、焦点も合わない目で前を見ながら。
「話…… かぁ」
話には自信があった。物語ぐらい、自分だけで書けると思ってた。アイツの力なんて借りなくても書けると思ってた。

 


「ダメだ……」
締め切り1週間前。雪が降るでしょう、という天気予報は見事に外れ、真っ暗になった外には、空っ風が引きつけている。
目の前には純潔を守り抜いた原稿用紙。そのまぶしさから目を背けたくなるが、〆切のことを考えると、もうそんなことも言っていられない。原稿を落とす。それだけは避けたかった。いや、 いつもの自分だったらもう諦めて豪遊、コミケ前に落ちましたペーパーを作って終わり、にしているかもしれない。学業と同人の両立は大変だし、同人誌が落ちたくらいで、自分の人生に何か問題が起きるわけじゃない。もちろん楽しみにしている人たちには申し訳ないけど、そういうのも同人の醍醐味じゃないか。俺はプロじゃない。自分が描きたいから書いているのであって、人のために描いているんじゃない。それが、ただの言い訳だとはわかってはいるが。

こんなことを考えていても原稿が進むわけでもなく。時間だけが刻一刻とすぎていく。自分のペースを考えて、どれだけポジティブに考えても今日がストーリー、ネームのデッドライン。

チッ。

簡単に思いつくはずだったのに。あいつの手なんか借りなくても、漫画一本ぐらいかけるはずだったのに。

「それじゃ、さよなら」
別れはあっけないものだ。感慨深いものもなく。追いかけるわけでもなく。ただ、日常の一部として別れた。蝉の声がまだ残る頃だ。幼馴染としての美希は、俺の彼女として、いろいろと尽くしてくれたし、いっしょにいて楽しかった。
しかし、美希にはもう一つの顔がある。セミプロのシナリオライター。商業作品は手がけていないものの、同人ゲームや、CG集に入れるSSなどを中心に活動している。なんでも、プロの先生のところに弟子入りしており、デビューも時間の問題である、という噂も聞いた。もっとも、これは別れてからの話だから、噂の範疇を出ないけど。同人ゲーム界隈では、知らない人はいない、とも聞いた。

ぼんやりと、外に目をやる。時間はもうすぐ締め切りまでの日付を1日短くするぐらい。窓から眺める漆黒の闇は、吸い込まれそうな錯覚に陥る。美希がいなくなってからの時間。大学で顔を合わせても、挨拶もしなくなってからの時間。その頃から俺の心の中にある、錯覚。

「あー、やめだ止め! 今日はもうどう頑張っても出ない! 寝る!」
無駄だった1日が終わる。今日も結局、一回もペンに触らなかった。いや、触れなかった。白い悪魔がおいてある机から離れ、着替えようとしたとき。

『you got a mail! you got a mail!』

電子音声が俺の意識をパソコンに持っていく。パソコンのディスプレイには、未開封の封筒マーク。
「なんだこれ……」
自分の知らないメールアドレス。タイトルもない。右に出ているプレビュー画面を見て、安全だろうと言う確認をした上でそのメールを開封する。

長文。長めのメルマガでもこんなに長くない。ついプロパティを確認すると、30kbと出る。見たところテキストだけみたいだから、相当な量だろう。

新手のストーカーだろうか。自慢ではないが、イラスト投稿SNSであるPixisでランキング上位にくることが多い自分には、こういうメールは多い。だいたいはメンヘラをこじらせたような変なメールであったり、妙になれなれしいメールって言うのが大半な訳だけど。そういうメールはだいたいそのSNS経由でくるし、このアドレス自体、限った人にしか教えていない。まぁ、そういうのをかぎつけてくるのが本物のストーカーなんだろうけど。
そのメールの文体を見ていた。気がついたら、読み入っていた。どこかで見たことがあるような文体。

 

 

……夏の、話です。

 

男と女の、物語。

 

夏と言っても、海だとか、山だとかいうものは無く。

 

二人、机に向き合っている。

 

女の書いた小説を、読んでまんがにしていく男。

 

時には、内容について喧嘩をして。

 

時には、仲直りのために男がケーキとクレープをおごってくれて。

 

二人で、一緒に作っていった、同人誌。

 

二人で座った、パイプイス。

 

机の前に並べた、二人の努力の結晶。

 

一冊、一冊と一般参加者の手に渡っていく我が子を見て感じる喜び。

 

立ち読みだけで去っていった時の寂しさ。

 

結局は完売できなかったけど、少なくなった同人誌を詰めたカバン。

 

「来年は、完売できる作品、作ろうね!」

 

誓い合った、夜行バス。

 

それから、少し経って。

 

離れていく、心。

 

忙しくなっていく私に

 

上手くなっていく彼。

 

「もう、私はいらないのかな」

 

そう思ってた、夜。

 

街の中。

 

アクセサリーショップに入る彼を見て。

 

怒っちゃった私。

 

女の子と、一緒だったんだもん。

 

私と同じ、腰まで届きそうな髪の女の子。

 

何で一緒だったの?

 

私じゃ、ダメなの?

 

彼の前で、泣いた。

 

とにかく、泣いた。

 

周りのものに、八つ当たりした。

 

紙くずになっちゃった、私たちの同人誌。

 

部屋を飛び出した私を、アナタは追って来なかった。

 

あんな酷いこと言ったんだもん、仕方ないよね。

 

でも、悲しかった。

 

きっと来てくれる。

 

後ろから、ギュってしてくれる。

 

そう、思ってた。

 

でも、後ろからギュッとしてくれたのは

 

漆黒の闇だけだった。

 

いつからだろう、アナタと話をしなくなったのは。

 

いつからだろう、アナタと目を合わせようとしなくなったのは。

 

いつからだろう、アナタを無視するようになったのは。

 

いつからだろう、心の中に、漆黒の闇ができたのは。

 

いつからだろう、アナタがいないとダメだと気づいたのは。

 

でも、遅すぎた。

 

もう、元には戻れない。

 

元には戻れない……。

 

 

目の前にある同人誌。これが書き上がったのは、あのメールを受けて5日後だっただろうか。あのメールを見た後、気がついたら原稿用紙の前に座っていた。次々に上がるネーム。今までに無いペースで書き上げたこの作品は、何とか今日、日の目を見ることになった。

「ありがとうございますー!」

次々に売れていく、同人誌。はじめて、”ひとりで”作った、同人誌。いつもとは少し違うけれど、いつもと同じように売れていく同人誌。みんなの手に渡っていく、わが子たち。

「…………」

声が、きこえた気がした。聞きなじみのある、声だったと思う。だったと思う、って言うのは、はっきりときこえた訳じゃなかったから。寒空に、白い息と共に、消えゆく言霊。

島の端。声のした方向。そこには、一人の女性が立っている。ここからは顔が完全には見えないが、マフラーで顔を隠しているようだで、そこにベージュのダッフルコート。そして、腰まで届きそうな長い髪。

「……っ!」

脱兎。

まさにウサギのように。なにかに追われているように。なにかから、逃げるように。
「ま、待ってください!」
イスから体が跳ね上がる。隣のサークルさんに「すみません、ちょっと開けます!」と言うか言わないか。売り子さんが嫌な顔を浮かべる中、足はそのウサギに向かっていた。

人の間を縫うように走るとはよく言ったものだ。人をよけながら走るというのは、こんなにツライものであるとは。しかし、その目線の先には彼女がいた。見失うまい。その一心で走り続けた。

周囲の人にぶつかりそうになる。邪険な目で見られる。もしかしたら、準備会に通報されてしまっているかもしれない。しかし、見失うわけにはいかない。彼女のために。そして、自分のために。

どれだけ走っただろう。すでにビッグサイトの外、国際展示場前の駅へ向かうプロムナード。大道芸などがパフォーマンスをしている横を、彼女と俺は走り抜けている。端から見たらどう思うのだろうか。彼女に振られたけど追いかけている男? それとも、失恋した彼女を慰めようとしていると思われているのだろうか。

少しずつ。少しずつではあるが、その距離が近づいてくる。10m。必死に手を伸ばす。5m。もう少し。3m。もうすぐつかみ取れる。2m。彼女の腕を。1m。そして、手放してしまった、彼女への思いを。

「捕まえた!」

ベージュのコート、袖を掴んでいる男が一人。顔はマフラーで隠しているために完全には見えないが、その腰まで届きそうな髪が、彼女であることを証明していた。

「あのときはゴメン。本当に。やり直そう」

完全に上がっている息。その中から、かすれて出てくる声。その言葉は、マフラーで隠している彼女の耳へと入ってくる。言いたいことは沢山あるのに。全く出てこなかった。酸素が頭に届いていないのだろうか。それとも、伝えたいことが多すぎて頭の中でオーバーフローしているのだろうか。この言葉しか、出てこなかった。

沈黙。

彼女からも、何も言ってこない。こちらからも、何も言わない。ただただ、沈黙が二人の間を過ぎていく。

どれだけの時間が経っただろうか。彼女は、ゆっくりとマフラーに手をかける。お互いの顔をゆっくりと確認し合う。

「「あなた、誰ですか?」」

 

 

深夜11時。東京駅近くにある夜行バス待合所。あの美希とは違う彼女を捕まえたその後、ストーカーかなにかと勘違いされ、警察に連れて行かれそうになったところを武に助けられ、事なきを得た。「おまえは本当にバカか!」と罵倒されたのと、お礼と言うことで飯をおごらされたのは痛かったが、ブタ箱に入ることを考えたら安いものである。

ハレの日とケの日を分かつ、深夜バスが鎮座している。
バスの乗り口ではバスに乗る人間を確認していた。

明日から、またいつも通りの日々が始まる。いつも通りの日々があるからこう言うお祭りが楽しくて。こう言うお祭りがあるから毎日の生活を頑張れて。

今、唯一心残りがあるとしたら。あの時にみた彼女は美希だったのか。もし、彼女だったら仲直りできたんじゃないか。やり直せたことがあったんじゃないだろうか。

そう言うことを考えつつも、もしもの話なんてナンセンスだな、と苦笑する。あったのは、そこにいたのは、別の女性で。仲直りのチャンスもなかった。それだけだった。

もうすぐ出発のようだ。フロントライトが、自身の存在感を高めている。目の前に、人影が見える。ライトのせいで顔の確認もできない。かろうじて見えるのは、コートに、腰まで届く髪の毛と、手には一冊の同人誌。その視線が、こちらの方に向けられている。

「……ごめん、ね」
消えいるようなかすかな声。しかし、聞き慣れた、声。
「もう、終わりにしなくちゃ、って思ってたのに。会っちゃいけないんだ、って思ってたのに」
白く、残る言葉。はかなく消えていくその言葉が、かすかに届いてくる。
お互いに、顔を見ることができない。物理的にも、精神的にも。
「私、すっごく、寂しかった。おかしいね、自分から別れたのにね」
聞き慣れたその声を、今の俺には、とにかく聞いていた。聞くことしかできなかった。
「でも、これで良いって思ったの。私と、ナオくんは幼なじみ。彼女とは違うもん。私なんかより、あの人の方が、多分お似合いだもんね」
「そ、そんなこと……」
口をつぐむ。言葉が出ない。口元から出ようとする単語全てが音にならずに消えていく。はき出されるのは吐息のみ。
「でも、あきらめれなかった。すごく虫のいい話かもしれない。でも、元に戻りたかった。一緒に同人誌を作りたかった。だから、メールしたの」
原稿が進んでいないって言うのは武さんから聞いたわ、と悲しげにほほえむ。
「読んだよ、同人誌。私の書いたシナリオとはちょっとだけ違ったけど、面白かった。最後のオチとか、すっごくよかったよ?」

あのとき書いたエンディング。飛び出した彼女を、追いかける俺。背後から彼女を抱きしめ、一言「愛してる」。ハッピーエンドが好きだった俺に取って、最高の締め方。

「その本さ、最後まで、読んだ?」
その一言を、伝える。自分の精一杯の力を込めて、その一言だけを。
「よ、読んだけど、なにかあったの?」
「あとがきの、次のページ、見てよ」
後書きの次のページ。奥付と、後書きの間。普通は、空白になる、1ページ。

 

……

 

…………

 

………………

 

バスのライトに照らされて。絡み合う一組の男女。お互いの目には涙を浮かべ、背中のリュックには、わずかに残った在庫の同人誌。二人、「来年は、完売できる作品、作ろうね!」と言いながら。とにかく、とにかく、抱擁を交わした。

同人誌の最後のページ。美希のウェディングドレス姿に、胸元にはあのとき買ったペンダント。そしてその下に。

『She is my Engagement partner』

~fin~