たいしたこと書いてないんで読まなくていいです。たまにCG集の宣伝が入ります。

日本におけるマスキュリズム(男性差別反対運動)の必要性

ネット言論の場において、フェミニズムに対する批判が俄かに活発になってきている。

自分もラディカルフェミニストの代表的主張の一つである「ポルノの敵視・廃絶」によって、これらの問題と職業上無縁ではいられなくなった。「ポルノは理論、レイプは実践」「全てのセックスはレイプ」などといったラディフェミの性嫌悪的・暴力的言説は、同業者やファンの男性の経済的あるいは思想的自由を著しく侵害するばかりか、セックスワーカーや性表現に携わる多くの女性に対する侮辱でもあると自分は感じている。

多くのフェミニストは、こうした一部フェミニストの行き過ぎたミサンドリー言説を「ミソジニーが蔓延している社会なのだから、その対抗言論に過ぎない」と容認的だ。
差別の問題は、その差別をまず社会に認知してもらうまでが最も困難な道のりである。女性差別も黒人差別も同性愛差別も、まずその根源にはモラルや道徳があり、あるいは知的に劣っている、あるいは犯罪率が高いなどの「科学的」「統計的」根拠が与えられ、それを正当な扱いであるとする「良識」があった。であれば、女性差別を訴えればとりあえず耳目を集められる今日の女性差別問題よりも、日本社会においてほぼ認知すらされていない男性差別の問題の方が、より深刻な問題を孕んでいる可能性が高い。弱者は常に我々に見えない場所にいるのだ。

フェミニストは自分達の活動によって遥か昔に男女の法的平等が達成されたように思い込んでいるかもしれないが、今日我が国においては、いまだ男性にのみ不当な扱いを課す法律や司法判断が珍しくない。
こと性犯罪についてもそうだ。性犯罪はその性質上、合意の上であれば犯罪にならない行為を犯罪として取り締まるわけで、それは国民の内心を推定することに繋がり、さらに客観的証拠の挙がりづらさもあいまって、そこに権力の予断や推論が入り込みやすく冤罪の温床になりやすい。それは性犯罪という犯罪に対する忌避感情とは全く別個の問題である。
しかし昨今の「痴漢冤罪」を巡る問題一つ取っても、もう10年以上も前から司法の問題については指摘されてきたというのに、一向に問題は改善されない。冤罪とは本来、法治主義の秩序を守る上で一件たりともあってはならないことである。「疑わしきは被告人の利益に」という法治主義の大原則を捻じ曲げ、ひとたび冤罪の存在を許容すれば、正当な法治の裁きすらも形骸化してゆき、実質的に犯罪や私刑に容認的な社会感情を醸成していき、法治国家の根幹から揺るがしてしまう。だが、女性達が概してこうした問題に対し「男性の過剰反応」と冷ややかなのは、やはり自分達がその被害者になる可能性がほぼゼロだからであろう。
痴漢に限らず、性犯罪の問題というのはジェンダーの問題をしばしば包摂する。男性は性犯罪に殆ど遭わないと考えられているが、一方で女性は性犯罪の加害者として疑われることがまず無い。男性にとって性犯罪は無実の自分が糾弾される可能性を持った不安材料であり、女性にとって性犯罪とは無条件に糾弾できる(自分が糾弾される側にはなり得ない)問題なのである。誰しも「自分がまず被害に遭わない犯罪類型」について関心を払わないのはある意味仕方のないことだ。どんなに凄惨な人権侵害が起きていても、我々がチベットの民族浄化や中東の戦争に対して、必ずしも我が事のように共感できるわけではない。しかし、こと痴漢や性犯罪については少なくとも建前上は「許せない犯罪」と殆どの男性が言う一方で、冤罪については今なお殆どの女性は無関心だと言っていいだろう。
こうした非対称性に対して、しかしながらいまだに保守的な価値観を持った司法や行政権力は、とりあえず「弱者である女性を保護する」という視点で行動しがちである。結果、司法の場において男性は明らかに不利な立場に置かれることが多い。
DVや児童虐待の問題についても同じで、昨今の研究ではDVや児童虐待の加害者は男性よりむしろ女性が多いことが明らかになっているにも関わらず、男性のDV被害者へのケアはほとんど省みられることなく、一般男性が児童に接近することや、男性保育士などに対する偏見も根強い。
今日までに築かれた知見では、かつて「Only Man」だと思われていたことの殆どは単なる誤ったバイアスであったと証明されている。女性も性欲があり、児童に性的関心を持つこともあり、男性と同程度には暴力的で、同程度にはポルノを嗜好し、同程度には児童虐待に加担するのである。男女の差など、様々な貧富や能力の個人差に比べれば本当に些細なことなのかもしれない。であれば、あるいは性犯罪も、今日ではほとんど男性によって行われているように見えているが、実際には女性による性犯罪のほとんどが見過ごされているだけなのかもしれない。

日本の男性の幸福度の低さは、今日深刻な状況にある。

本邦においては、女性の幸福度が先進国の水準と比べても高いのに、男性のそれは国際的に見て極端に低く、イラクやエジプトといった紛争地域のそれと同水準である。自殺率は女性に比べ極端に高く、平均寿命は短く、危険な労働に従事される割合や、ホームレスの割合も圧倒的に男性が多い。そしてなにより、誰もそうした問題を男性特有の問題として関心を払ってきていないのである。
先の3月8日には、女性の政治的自由と平等を訴える「国際女性デー」があった。
日本における「国際女性デー」の歴史は古く、社会主義フェミニスト団体である赤瀾会が開催してから実に100年近い歴史がある。しかしながら一方で、1999年に始まった「国際男性デー」はいまだ日本で行われたことがない。
女性を「女らしさ」から解放せよと謳いながらも、我々の社会は男性を「男らしさ」から解放することはなく、稼得の責任や家長の責任はそのままに、過酷な労働と貧困な社会保障の元で飼い殺し続けている。婚活市場でも、男女のあらゆる出会いの場でも、常に男性ばかりが高い金額を支払わされる側にある。それは男性が「稼ぐ性」「養う性」としての責任をいまだ背負わされていることの証左でもある。

日本に本当に必要なのはフェミニズムではなく、またそれを批判することでもなく、「マスキュリズム(男性差別反対運動)」なのではないだろうか。

日本のネットにおいて「ミソジニー」と一括りにされる言説をよくよく眺めていると、彼らが本当に言いたいことは「女性を差別せよ」ではなく「男性を差別するな」ではないかという気がする。現に彼らの主張内容は、おおよそマスキュリストの代表的な言説としばしば酷似している。

実はこうした議論は、アメリカなどでは既に20年以上も前から起きている。
日本でまだ議論の未成熟な「男性差別」に関する書籍の殆どは、洋書の翻訳に頼ることになる。代表的なのはワレン・ファレルの「男性権力の神話(The Myth of Male Power)」である。まだ単価が高いが、これは間違いなくこれからの時代の日本男性が読んでおくべき本だろう。よりアクセスしやすい価格で普及することを願う。

また、近年の本ではこういうものもある。
いずれも、アメリカで家族学を修め、日本における「男性差別」問題の第一人者となった久米泰介氏の訳書である。

日本でこうしたマスキュリズム運動や、それ以前のメンズリブに対する社会的な関心は薄い。ほとんど全くといっていいほど省みられていないどころか、まるで知られてすらいないと言える。
そもそも――フェミニストやジェンダー論者の側が半ば無意識的に男性を排除してきた側面はあるにせよ――両性の平等とジェンダーロールからの解放という極めて社会において重要なファクターについて、女性にのみ議論を任せてきたこと自体が、男性にとって致命的な間違いではなかったのだろうか。
男性だけの議論の場で両性の平等が図れないように、女性だけの議論の場でも両性の平等は実現し得ない。「女性差別」を主題とした議論の場が、女性の視点に偏るのは考えてみれば当たり前の話である。フェミニスト達が「ホモソーシャル」として批難してきた内容は、そのままフェミニズム言論の場それ自体にあてはまるのである。それが男性差別を生むとしても、それは当然の話であって、むしろ「男性を差別するな」とフェミニストに向かって言うこと自体が間違いだったのではないか。フェミニストはあくまで女性差別を解放するための運動体であるので、男性に対してそのような責任を引き受ける義務はない。本当に男女平等を達成したいのであれば、ただ女性達に「男女平等」のための運動を任せっきりにするのではなく、むしろ男性達こそが立ち上がらねばならないのだ。
「男性差別」の視座がないことが、フェミニズム議論自体の劣化をも招き、とりあえず何でも男性が悪いことにしておけば全て丸く収まるような、ほとんど自家撞着とも言える低質で差別的なフェミニストの言論をまかり通してきたのではないだろうか。

このような状況を生み出した原因に、一つは日本全体の保守的傾向があるだろう。今日ではフェミニズムそれ自体が、「男は強くあらねばならない」という家父長的男性による「やせ我慢」によって社会に受け入れられているようにすら思えるが、伝統的家族観の中では古くから男は男らしく、女は女らしくといったジェンダーロールに「男女とも平等に」抑圧されてきた。それはそれで(その是非はともかくとして)一つの男女平等の形ではある。
実際、必要以上に自由を与えられるよりは、はじめから役割が固定されているほうが、自分で生き方を決められる意志の強い少数のエリート以外の、ごく平凡な大多数の人々にとっては幸福であった側面もあろう。心理学の世界では「削除された選択肢の魅力」などとも呼ばれるが、人は自由が与えられるほど、失われた選択肢に悔いることが増えるのだ。
しかし、女性達はそれを「女性差別だ」と言った。そしてジェンダーロールからの解放を訴えてきてはや一世紀が過ぎた。今更家父長制に回帰せよとか、自由を失くして役割を固定化せよと言っても世論の、特に女性の共感を得ることは難しいだろう。
ならば、男性達もまた「男性差別」の訴えを起こさなければならない。稼得能力者としての責任や強者としての役割の押し付け、忍耐を強いられることから解放され、また男性に対する法的・社会的に不平等な扱いや、しばしば男性の性や性欲自体に向けられる不当な蔑視、無実の大多数者を犯罪者予備軍のように扱ってきた差別的言説をこそ糾弾するべきではないか。

もう一つの原因は、そもそも日本人にとって権利運動が身近ではないことだ。今日の日本人の人権は日本人が勝ち取ったものではない。人権とは憲法によって保障された自由や権利のことで、不当な権力の介入から個人を守るものだ。しかし日本において、それは戦後アメリカの主導によって導入されたもので、民主主義革命によって血と死と引き換えに成し遂げた功績ではない。このことが、「良識的な」日本人を人権闘争から遠ざけ、人権について語ることから遠ざけてきていた。60年代の安保闘争の顛末がそれに拍車をかけ、今では多くの人々が自ら人権のために戦うことにひたすら無関心になり、経済的利益だけを邁進するようになったように思える。
海外に行くと、デモやストが驚くほど頻繁に、時に野蛮にすら見える形で行われることに驚く。警察や公共交通機関といった、社会にとって無くてはならない機能ですら、しばしばストによってその機能を停止する。しかし欧米社会の常識では、人権とは自ら闘争して守るものだ。日本においては男性に限らず、女性もまた権利運動に積極的ではない側面がある。だからこそフェミニズムのような権利運動もまた、一部の極端に偏った視点を持った人々によって主導され、それがまた多くの日本人に白眼視され、あるいは誤った解釈が流布する原因となってしまう。本来、民主主義社会においては市民全てがコミットしなければならない問題について、一部の声の大きな者達にのみハンドルを委ねてしまうことによる弊害である。これは人権問題に限らず、日本の政治全般、労働問題全般にも言えるだろう。

我々は、もっと人権を守るための試みに積極的でなければならない。男性も不当な性差別にはっきりと抵抗を示すべきであるし、女性もただ己の男性嫌悪や差別意識を正当化するために「女性差別」のロジックを安易に利用すべきではない。

フェミニズムが何故今日のような嫌われ者になってしまったか。それはフェミニズムそれ自体が「スタンフォード監獄実験の看守」的役割を女性に与えるからだ。フェミニズム言論の中で、女性自身は決して批判の対象にならない。女性達は男性に対して常に批判者、断罪者の立場を取ることができる。そして批判内容にとって都合の悪い女性が存在すれば、それを「名誉男性」と定義し「女性」の枠組みから外すことで正当性を維持する。
そのような言論がさも正当な言説であるかのように世間に流布すれば、自らを「看守」の役割であるかのように自己規定した女性達は当然に傲慢さを持ち、他者の内心やふるまいを容易い気持ちで断罪するようになっていく。それは女性達が悪いのではなく、一方的な批判者の立場を与えられたことによる認知の歪みである。今後マスキュリズム議論の発展によって、フェミニズムが正当な批判に晒されるようになれば、必ずフェミニズム言論もまた健全化への道を歩み、男女平等の社会により近づいていくのではないだろうか。

ここで理解してもらいたいのは、男性差別の問題の解消は、女性にも間違いなく自由と生きやすさを与えるであろう、ということだ。これはフェミニスト達が「フェミニズムは男性も生きやすくする」と言ってきたこととまったく同じである。
人間には男と女しかいない。性的少数者の存在を鑑みても、肉体的には(あるいは精神的にも)男か女かのいずれかに括られる。であれば、一方の発言だけで議論が正常に進むことなどありえない。
世の女性達が男性から受けてきたジェンダーの抑圧は、また男性達を抑圧してきたジェンダーロールの裏返しでもある。男性がそれらの差別や抑圧から解放されれば、男性達のジェンダーバイアスへの意識も啓発されるとともに、女性達に対する「あいつらばかりが自由になるなんて許さない」というような糾弾の声も起きなくなっていく。と同時に、これまでは女性だけが「反差別」の声をあげることで、かえって雑多な議論、あるいは過剰な暴論までも包摂されてきてしまったものが、適切な反論を受けることによって健全化されうる。

男性達もまた、個々の目先の議論に対して不毛な言い争いをするのではなく、自分達の受けている不当な扱いや差別について、きちんと実態を調査し、まとめ、発信する運動体を確立していく必要に迫られている。今日ネットで起きている諸議論は、まさに先進諸国に20年遅れではじまった、その過渡期なのではないだろうかと思う。

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ジャンプ編集部に向けられた「セクハラ」という名のマウンティング:追記

前回のブログ記事の内容について、補足。
 
どうも自分の観測範囲で、そもそも「ジャンプ編集部に男しかいない」こと自体を問題視する人達がいたので、それについて思ったことをつらつら。

俺は「男のための世界」「女のための世界」というのは、それが権力性を伴わない限りは守られるべきものだと思う。
それをホモソーシャルだ何だとフェミニスト達は非難するだろうが、たとえば逆に少女漫画やBL漫画が「最近は男性も読むらしいから、男性読者の目線も意識しよう、男性が不快になるような表現は避けよう」となったら、表現の軸がぶれてしまうし、本来ターゲットとなっていた人々の存在を軽視することにも繋がる。
男性向けの漫画は男性のためにあるのであり、女性向けの漫画は女性のためにあるのであって、そのどちらもが世の中にあることが素晴らしいとは思うが、そのどちらもが常に両性のためにあるべきだとは思わない。そこを履き違えると、「女子会に男も混ぜろ」と言っているのと変わらないだろう。

実際には、少年漫画やエロ漫画を読む女性もいれば、少女漫画やBL漫画を読む男性も沢山いる。最近は特に、コミックの電子化によってエロ漫画を読む女性達も増えて、自分の漫画を読んでくれている、知ってくれている女性も沢山現れるようになって、なおさらそうしたことを強く意識するようになった。
しかし、そこはあくまで「男性向け」「女性向け」の表現だからこそ、それらを目的として作られた表現物を楽しんでいる層であって、じゃあ男性向けエロ漫画を女性も沢山読んでいるようだから女性目線の内容も取り入れよう、となればそれは単なるレディコミと変わらなくなってくるだろうし、それではそれまでエロ漫画を楽しんで読んできた女性だって落胆することだろう。彼女らは「男のための世界」を覗き見することこそが楽しかったのではないのか。それは少年漫画においても同じことが言えるだろう。
世の中には、女性が暴力をふるわれたりレイプされたりするような漫画を嗜好する女性だって、みんなが思っているよりも沢山いるのであって、そういう女性だっていたっていい。うちのアシスタントの女性だって、朝凪先生の大ファンだと言う。「全ての女性は女性に対する暴力表現を好まない」なんて公言したら、それこそ知るかバカうどん先生とかに笑われてしまう。大体、男性だって「男性に対する暴力表現」を好む層がいるからこそGirlsForMみたいな雑誌が生まれるのであって、女性が必ずしもそうでないということなどありえない。

表現の受け手、作り手に、本当は男女の垣根はないと思う。ただ、作り手側はその表現が一体どこをターゲットにして作られているものか、ということをきちんと意識していないと、きちんと筋の通った創作ができなくなってしまう。少年ジャンプ編集部に男性しかいないのは、たとえどんなに女性読者層がいようが「この雑誌はあくまで男の子のための雑誌なんだ」という軸を変えないための、一種のプロ意識のようにも感じる。
だからあの雑誌は素晴らしいのであって、あの表現を楽しむ多くの女性達もまた存在するのだ。むしろ、そんな環境から作られた「男の子のための漫画」があれほど女性達の支持を得てきたことは素晴らしいことではないか。そこをはき違えて「女性だって読むのだから女性に配慮せよ」というのは、それこそ女子トイレにずけずけと押し入る男性のようなものだ。

当の発端となった漫画は既に削除されてしまっていたが、自分はこうした問題が起きたことでむしろジャンプ編集部を賞賛したい。男の身内な下ネタ、結構じゃないか。ジャンプは「男性の目線」しか意識していないからこそあのような表現が生まれたのであって、それこそがジャンプの価値そのものなのだ。ことさら何事につけても「女性の目線」なんてものが求められる昨今で、そうした意識を守っていられることこそがジャンプという雑誌の優越性であるようにすら思う。



最後に、直近で話題になった「フェミニストの女性ポルノ監督」の記事を紹介する。

男女平等、女性の社会進出が謳われて50年以上が経ち、これまでも既に沢山の女性が、被写体としても制作者としても、実際にはポルノ産業に関わってきたというのに、今になって「女性の新しい視点を取り入れる」などと言っていることは、むしろカビ臭い昭和時代の価値観にすら感じないだろうか。ポルノが変わってこなかったこと以上に、フェミニズムがこの50年の歴史の中で変わってこなかったことをこそ感じさせる記事だった。
今の時代、女性の視点なんてものは目新しいものでも何でもない。むしろ一部女性の意見を見て「女性全体の視点」だと思い込んでいることこそが、女性の多様性を見落としているのではないか。「男による、男のための世界」がそのままの姿であることにこそ価値を見出す女性達だって、沢山いるはずなのだ。

ジャンプ編集部に向けられた「セクハラ」という名のマウンティング



今回のお題はこちら。

まず最初に語られねばならないのは、これはセクハラでもなければ性犯罪でもなく、もちろん性犯罪を助長もしない。どこにも特定の被害者のいない、ただの私的領域での合法的な表現をまるで犯罪のように糾弾し吹聴することは、それ自体がむしろ誹謗中傷であり犯罪行為になりうる。
「セクハラ」「性犯罪」とは本来個人の人権を守るためのものだったのにも関わらず、特定の誰にも被害を与えないような表現物まで「環境型セクハラ」と言われ、時として「強姦」とまで同一視しまうことは、かえって実際の性犯罪そのものの罪を限りなく希釈させてしまうだろう。現実の殺人犯とフィクションの殺人を同一視する社会で、一番得をするのは殺人者達だ。糾弾すべき性犯罪が諸外国と比べて極めて少ないこの国で、運動目的を見失った女権主義者たちが本来糾弾すべきでない対象にまで範囲を拡大して、性犯罪の意味そのものを見失わせるような行為それ自体が、むしろ現実の性犯罪を助長し野放しにする行為に自分には思えてならない。

みんなあまり最近の少年漫画を読んでいないのか、脳内の情報が何年も前からアップデートされていないようだが、今の少年漫画ではそもそも昔のような下品なお色気だのはウケないし、そうした漫画が急激に減ってきている。アメリカでも「プレイボーイ」がポルノを掲載することをやめたということがあった。それは、メインの若年層男子に性嫌悪が蔓延していることと少なくとも無関係ではないだろう。
大人の社会でも近年問題視されている性嫌悪由来のセックスレスだが、子供の社会においてはさらに深刻で、中高生の性交経験率は近年急速に減少し、ほんの十数年前の何分の一にも低下している。学生の性に対する意識調査では、性に対して否定的な考えを持つ学生が急増しており、今の男子学生の5人に1人はセックスに対して拒否反応を示すほどだ。このままいけば、現在の少子化などはまだ序章に過ぎなかったと思われるような、童貞と処女が圧倒的マジョリティの、未曾有の少子高齢化社会が訪れるのではないかとすら危惧される。それは、人が生まれながらにして当然に持つべき「性欲」を忌避し続けてきたこと、悪しきものとレッテル貼りをしてきたことによって、特に強く性欲を持つとされてきた(これもジェンダーバイアスなのだが)男が男として当たり前に生きることにすら、罪悪感を植えつけられてきたことと無関係ではないだろう。

そもそも「表現」によって誰かが傷つくとするならば、真っ先に規制されなければならなかったのはフェミニズムだ。フェミニズムは、当初より本質的にミサンドリーを包含してきた。「女を差別するな」と声高に叫んできたフェミニズムが、しかし一方で男性の性欲、生理的特性、容姿の優劣を平気で差別し、キモい、醜いと罵ってきたことは事実である。そしてそれは、女はそのような特性を持たない、というジェンダーバイアスそのものと不可分でもあった。フェミニズム50年の歴史こそが、何よりも男に「加害者」のレッテルを、女に「被害者」のレッテルを貼り、その尊厳や多様性を否定し続けてきたのではないだろうか。その歴史がいま、男が男として生きること、その生理や性欲の在り方にヘイトを向けても当然と思わせるような性差別的な社会風潮と、その中で尊厳を失って生きる男たちを生み出している。その功罪にもっと自覚的であるべきなのではないか。

人権運動とは、ある意味で誰かを傷つけたり迷惑をかける行為そのものであった。民主主義とは、互いに迷惑をかけあい、その上で憲法上保障されるべき人権を互いに主張しあうもので、必要以上に他者の人権に配慮して互いに萎縮する社会は本質的に全体主義である。既存の体制に何の波紋も与えないような行為で、いったい社会の何が変えられるというのか。そのような相互萎縮は、国民の自由を著しく制約する一方で、国家にとって管理しやすく都合のよい「臣民」を作り出す行為ともいえる。
誰かを傷つけることと、誰かの人権や権利を守ることとはしばしば並存する。我々は「誰にも迷惑をかけない」ように、性嫌悪者のために性表現を排除し、嫌煙者のためにタバコを排除し、一般住人の安全のためにホームレスを排除し、警察に配慮してデモ一つ起こせず、多くのサラリーマンのために交通機関がストを起こせないような社会を作り出して、その結果誰が幸せになったのだろう。誰も彼もの人権を侵害しながら見せ掛けだけの安心を獲得して、果たして本当に我々の「権利」は伸張しただろうか。フェミニズムが男性性を差別することを常態化させ、果たして女性は自由になったろうか。我々は、互いの自由を叩き、互いに自重と配慮を求めすぎた結果、互いがただ生き辛いだけの社会を生み出してはいないか。

今回のケースにおいて、批判者が何を言うのも自由だが、理屈と膏薬は何にでもつく。単なる己の嫌悪感情に適当な理屈をつけて、それで他者の自由や権利を叩くことにはもっと慎重であるべきだろう。その嫌悪感情それ自体もまた社会が作り出してきた固定観念だ。この一見で少年漫画それ自体を叩いていたフェミニスト達もいたが、彼女らはほぼ例外なく昨今の少年漫画など読んでおらず、ただ己の妄想の中のマチズモ的漫画観を藁人形にして叩いていた(エロ漫画規制の時と同じである)。「女は性欲を向けられるもの」ということを前提として己の嫌悪感情を発露することは、かえってそうしたバイアスを固定化するだけだろう。相手が誰であるにしろ、性欲を持つこと、性欲の対象になること、それ自体は何の害でもないし、ヒトがヒトとして生きていく上でむしろ当然にあるべき営為である。問題は、特定の他者に対して身勝手に己の感情を振りかざす行為が害なのであって、それが性欲であろうが愛であろうが嫌悪であろうが、ヒトがどのような言葉をあてはめようと、本質的には同じことである。
今回、ハラスメントの対象になった被害者がいるとしたら、それは当事者たるジャンプ編集部である。彼らは誰にも迷惑をかけずに自分達だけで遊んでいたのに「お前達男はいつも私達女に性欲を向けるから気持ち悪い」という、フェミニズム女性たちの「女性」という不特定多数の集団を乱暴に一括りにして勝手にその意見を代弁するマウンティングの被害者となったのだ。これは本質的にセクハラと同義である。「性欲を持つ男性」というジェンダーバイアスと、「性欲」そのものに対する差別意識をベースに、ありもしない被害者像を妄想し、女性性を振りかざしてバッシングしたのだから。
男性の性欲の発露それ自体を差別するということは、当然に女性に対する差別にもなりうる。それは「女性は性欲を抱いてはいけない・抱くはずのない」性であるというバイアスと一対である。女性差別と男性差別は常にコインの裏表だ。「女性は弱いもの」というバイアスが「男性は強くあれ」というバイアスであったのと同じように、女性が「こんな表現は性差別だ」と訴えるたび、それは女性たち自身に「性欲を持たない、あるいはそれを表出しない、性差別的でない自身の高潔さ」を押し付ける結果となり、必然的にその自由をも束縛するのだ。それは伝統的な家父長的倫理観そのものでもある。我々は、様々な性のあり方、性欲の在り方、その発露その表現、それ自体を差別してはならない。それがフェミニズムの本来の(すくなくとも建前上の)出発点ではなかっただろうか。


最後に。
それぞれドイツ、タイ、フィリピン、アメリカに実際に設置されている
「トイレの男女表示マーク」である。

我々の社会にあるのは性差別ではなく、単にいささか保守的すぎるだけなのかもしれない。

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「コンビニはエロ本を売らずにオムツを売れ」という主張は商業BL漫画を絶滅させる

「#コンビニはエロ本を売らずにオムツを売れ」というのは、一時期ミサンドリスト達によってTwitterで広められた運動とその反論につけられたハッシュタグである。




その後のTwitterユーザー達の調査によって、どうやら大半のコンビニにはオムツが普通に売られていることが判明したので、どうやらこのタグの本旨は「コンビニでエロ本を売るな」であるらしく、話題の発端もそうした趣旨のツイートであり、オムツ云々は枝葉末節であったようだ。いわく、子供連れでコンビニに入る時、特にトイレ近くにエロ本が置かれるケースが多いことで子供の目に触れる可能性が高いことが不満らしいが、おそらく子供をダシにして不快な存在を攻撃しようとする、表現規制派によくある手法の一種であろう。
こうした主張をするミサンドリスト達は、自身を「フェミニスト」と自称してはいるが、その主張内容は「男性憎悪・ヘイトや差別の肯定・表現規制推進・女性の自己決定権の否定・女性の弱者性の極端な喧伝」が主体であり、およそ人権派ともフェミニストとも呼べるものではない。不思議なのは、こうした主張をする女性達がしばしば「腐女子」を自称していることである。表現の自由の恩恵を最大限に享受しながら、表現規制を訴えるその姿勢は理解に苦しむが、彼女らの主張がいかに天に唾する行為であるかを、ここで明らかにしたい。「コンビニでエロ本を売るな」という主張は、まさに彼女らの読んでいる「BL漫画」に致命的な危機をもたらす恐れのある主張なのだ。


さて、まず言わねばならないのが
「コンビニにはいわゆる成人向レーティングのエロ本はそもそも売られていない」ということである。
  
成人向というのは、あれだ。成人向の本についている丸い黄色の「成人向け」マーク。

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そう。これこれ。
これがついている本が、出版社の自主規制によって「成人向け」とされている本である。

基本的に児童の立ち入るような場所には置かれておらず、区分陳列が義務付けられるかわりに、刑法175条(わいせつ図画)に抵触しない範囲内の表現であれば基本的に許されている。性器修正も一般誌のそれに比べると薄いことが多いが、これは摘発にあたる警察の裁量によるところが大きく、ほとんど一般誌レベルの修正であったり、逆に細い棒線一本で最低限修正の意思を示せばよかったり、その基準はここ数十年の間に繰り返し変化している。今では同人誌ショップなど専門の書店に行かなければ置いてないので、そもそもこのマーク自体を見たことがないという人もいるかもしれない。

ではコンビニの「成人向け」棚は何かというと、これは都の青少年条例に基づく、フランチャイズ協会による自主規制である。その内容はほぼ一般誌の性表現と同水準(ヤング誌やレディコミなどの性表現と同水準の修正・表紙に下着や裸を載せてはならない・児童とわかるキャラクターの性描写を描いてはならない・学生服や軍服、コンビニ店員などの制服を描いてはならない等、捉えようによっては一般誌より厳しい)ながら、フランチャイズ協会の規定によって成人向けとしてゾーニングすべきとされた本が置かれている。これは出倫協の基準としてはあくまで「一般誌」の範疇であり、前述の「成人向け」マークは入っていない。内容も「一般誌で許される範囲ギリギリの性表現、セックスをテーマにした表現物の寄せ集め」といえるものとなっている。
したがって、コンビニにある「エロ本」を排除しようとすると、必然的に他の出版物も犠牲になる。そのエロ本の何をもってエロ本たらしめているかといわれると、その内実はほぼ一般誌なので、たとえば表紙の水着がダメだといわれればヤング誌のグラビアやファッション誌も、性的な文言や性行為がダメだと言われたらレディコミやスポーツ新聞、ゴシップ誌、女性誌のセックス特集などもダメということになってしまい、極端に言えばコンビニから本を無くせということにもなりかねない。これが、「コンビニでエロ本を売るな」と言っている人々が誤解している点の一つである。
 
コンビニ売りのエロ本は、ネットの発達した今なお安定した売り上げの見込める優良商材である。長距離輸送トラックの運転手や、その他ネットを使えない中高年が主な消費層となっていると言われているが、主要な利用客は20代男性とも言われている。当然、コンビニ側の本音としてはできれば置きたいと思っているのだろうが、上記の流通規制によって現在は「成人向けの棚を確保してその中で売る」「テープ止めをして立ち読みできないようにする」「未成年に売らないようにする」などの制限がかけられており、元々店舗面積のカツカツなコンビニでは、エロ本のためだけにわざわざ棚を確保できていない店舗もある。そのため現在は成人向けの棚が用意されていても、その中にエロ本と一般誌が混在して置かれていたり、そもそも成人向けの棚自体を用意していない店舗も多い。はじめから「エロ本が売られていない」コンビニも最近は増えてきているのだ。

さらに、これらコンビニおよび一般書店に陳列販売されている書籍の中から、毎月何冊かの本は、「有害図書指定制度」に基づいて「不健全指定図書」とされる。これは前述の「成人向け」のようにゾーニングマークによって区分陳列されていない、いわゆる児童が手にする可能性のある書籍の中に、児童に悪影響を与える可能性のある書籍がないようにという名目で、都の条例に基づく第三者機関である「青少年健全育成審議会」が毎月行っているものだ。都の条例、とはいっても殆どの出版社は東京に集中しているため、実質全国的に適用される法的検閲となっている。不健全指定された図書は一般書店での販売を禁止され、Amazonからも削除される。さらにこの不健全指定を連続3回、あるいは年に5回以上指定された雑誌は、取次でも扱うことができなくなるため、実質廃刊に追い込まれる。たまにエロ漫画雑誌がほぼ同じ作家陣・編集部であるにも関わらず、タイトルを変えて新雑誌として刊行されるのはそのためだ。
 

さて、ではこれらコンビニ売りのエロ本を攻撃することが、なぜ商業BL漫画の絶滅に繋がるか説明しよう。
 
実はここまでのエロ本のレーティング・ゾーニングの仕組みのほとんどは、従来男性向の本にのみ限定される仕組みであった。「エロ本」といえば男性向の本のみを指しており、女性がエロ本を読むということ自体、古い考えを持つ都の審議会には理解されていなかったし、女性向作品を出版している人達自身、自分達の作品が「エロ本」であるという認識を持っていなかったのかもしれない。
ゆえに、女性向の商業BL作品やレディコミ作品、少女漫画等などにはそもそも「成人向け」というレーティングが存在しなかった。男性向けの成人向けエロ本とは違って、性表現を伴う女性向雑誌ないしコミックは一般書店の、それこそ児童も目にするような場所に現在も普通の雑誌やコミックと同じように堂々と陳列されている。さらに一昔前には、一般の書店で少年漫画の単行本のすぐ隣に、同作品のBL同人アンソロジーが陳列されているなどの光景も珍しいものではなかった。そうした書籍にうっかり若かりし頃に触れて、腐女子になったという人も珍しくないだろう。女性向けのエロは、従来子供でも簡単にアクセスできるものだったのだ。
さて、「過激なものは成人向けとして区分陳列され、一般誌水準の性表現であってもコンビニではテープ止めされ区分陳列され未成年は購入も閲覧もできず、一般書店には置かれてもいない男性向けエロ本」「一般書店に普通に置かれ、レーティングもゾーニングもされていない女性向けエロ本」では、どちらが児童の目に触れやすく、有害であると捉えられるか。考えてみなくてもわかるだろう。
いま、「青少年健全育成審議会」は女性向け書籍がこうした「野放し」に近い現状であることに気づき、それらを狙い撃ちにしている。男性向け書籍が不健全指定される件数は年々減り、かわりにレディコミ、BLといった女性向けの本ばかりが、毎月不健全指定されている。こうした流れを警戒してか、最近では例の黄色いゾーニングマークつきの女性向けBL雑誌が登場したりしているが、それもごく最近のことでまだ店舗流通の基盤もなく、これらの本はネット通販でしか購入できないのが現状である。
さて、そんな中で既に十分なゾーニングが図られているコンビニに対して「児童の目につく所でこんな本を売るな」という強いプレッシャーをかけるとどうなるか。そうした声は流通を通してフランチャイズ協会の所属する青少年審議会に届き、「性表現を伴う書籍は児童の目に触れるべきでない」という理解とともに、一般書店で公然と売られているBLやレディコミに対する規制を強化することに繋がるだろう。コンビニ売りのエロ本は既に条例で可能な範囲の限界までゾーニングされており、その表紙は一般誌のそれと変わらぬ水準で規制されており、その中身を児童が閲覧することも不可能な状態になっている。一方で、依然として一般書店売りの女性向エロ本が野放しの状態が続いていることは事実だからだ。こうした状況は全国どこの書店に行っても見られるので、「児童の目のつくところでエロ本を売るな」という主張に対しては、審議会のみならず、ネットユーザなどを中心にそうした一般書店の状況を指摘され問題視される風潮が生まれる可能性も十分にある。
これが、「コンビニでエロ本を売るな」と言っている人々が見落としている、もう一つの点である。腐女子がコンビニエロ本を批判することは、致命的なブーメランとなって彼女ら自身に襲い掛かる危険性があるのだ。
 
しかし、女性向けのジャンルがこうした規制に対して対策を立てることは難しいだろう。従来「成人向け」のレーティングのなかった女性向け業界では、先に触れたようにそうした区分の店舗流通の基盤がない。仮に今後そうした流通網を構築したとして、女性が「女性向けエロ本屋」としてゾーニングされたエリアに足を踏み入れて本を購入するハードルは、男性のそれと比べるとかなり高いのではないだろうか。
もし今、一般書店で売られている女性向けのジャンルに対して、男性向けと同じレベルのゾーニングを行うような要請――たとえば、学生などの未成年を描いたBLや、下着姿が表紙に描かれたBL、一般誌に不適当な露骨な性描写のあるBLは成人向けエリアのある店舗で売ること。サラリーマン物など一部のジャンルのBLやレディコミのみ、性器修正をほぼ真っ白にした上でテープ止めをして区分陳列して書店で売ること、表紙は水着のみ可――となれば、商業BLはほぼ壊滅状態になるだろう。
わざわざそこまでの労力を払って区分陳列のために棚を割いてくれる書店もなければ(実際、同様の理由で男性成人向けコミックは一般書店から駆逐された)、そうして明確にアダルト向けとして区分された店舗に足を踏み入れる女性客も男性のそれに比べれば圧倒的に少ないだろうし、何よりそうした流通網というのは一朝一夕で確立できるものでもない。表現の幅も極端に制約され、ジャンルとしての魅力も大幅に失われる。
ただでさえ出版不況でギリギリの経営をしている出版社は軒並みBLから手を引き、紙のBL漫画は同人誌を残して消滅、商業BLは電子のみが存続するような状態になるだろう。男性向けエロ漫画でも近年は急速に紙の本が売れなくなってきており、そのシェアの大部分を電子に移行してきているのだ。女性達が紙のエロ本に気軽にリーチできない状況が生まれれば、より深刻な事態が引き起こることは当然に想像される。自分達の愛してきた表現が、何によって支えられてきたか、一人ひとりがもう一度考えてみてもらいたい。

自分が何故これをTwitterなどで言わなかったか。自分はBL表現を守りたいのである。男性向けも女性向けも問わず表現の場を可能な限り拡大し、それを求める人々がアクセスしやすいようにして欲しいと思っているし、それが児童にとって、あるいは社会にとって有害であるなどという、何の根拠もない大人目線の勝手な言い分に寄り添って、無制限に性表現の場を縮小するよう迫ることが、単にそうした表現に対する社会的偏見にしか基づいていないことを自分は理解しているし、ひいては表現の自由を著しく毀損し、単一な価値観でしか物事を考えられぬ危険な社会を形成するだろうことを危惧している。
だが、そうでないと考える人々が多いことも知っているし、男性向けの表現を敵視する女性がいるように、女性向けの表現を敵視する男性もまた存在していることを知っている。自分の掲げた理論は、まさしく女性向けの表現を危機に晒す可能性があると思ったからこそ、自分のブログで細々と述べさせて頂くに留まった。 

男性向けエロジャンルが、このような厳しい規制を乗り越え存続してこれたのは、「男性向けエロは、多少買う時に恥ずかしくても買う人は買う」「男性はエロいのが普通、エロ本を買っても許される」というような、ある種のジェンダーバイアスに支えられてきたおかげなのかもしれない。それは「男性向けポルノ」「男性の性欲」が女性のそれに比べてことさら批判の対象に晒され、場合によっては犯罪視されてきたことの裏返しだ。「エロ本」をことさら敵視し「性=悪」のバイアスを助長するミサンドリスト達は、結果としてそうしたジェンダーバイアスを強化する。「男性はエロくて汚らわしいもの、女性は性欲を持たない高潔なもの」という男女差別的なバイアスを、女性たち自身が強化することに加担していけば、彼女らがセックスワーカーの自由を攻撃した時のように、「女性向けエロ本」の存在もまた許されないものになっていくだろう。それはひいては女性の自立どころか、女性たちの自由の大部分を自ら抑圧に晒す結果に繋がるかもしれない。
アンチポルノ派フェミニズムの始祖マッキノンは、日本のレディコミやBLを嗜好する女性について「そのような女性は存在しないか、いたとしてもごく一部の心的外傷を持った女性に限られる」と言った。もし、こうした表現を少しでも大事に思うのならば、女性達は規制派フェミニズムやミサンドリズムに傾倒すべきではないだろう。

ニーメラーの教訓を引き合いに出すまでもなく、与えられた自由にあぐらをかいて他者を攻撃し続ければ、いずれ自らの自由に刃が向く。我々の自由や権利は、あって当然のものではない。憲法にあるように、不断の努力によって支えられねばならないものなのである。他者の自由を尊重できない者は、自らもまた自由を得ることはできないのだ。
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