たいしたこと書いてないんで読まなくていいです。たまにCG集の宣伝が入ります。

ゾーニング有害論

ジャンプがまたしても槍玉にあげられている。

いわゆる「ラッキースケベ」と呼ばれる、少年向け特有の「風などの偶然によって女の子がパンチラや裸体を晒す表現」が、なぜか性暴力を肯定、助長するなどと難癖をつけられている。
この「ラッキースケベ」表現は、当然昨日今日生まれた表現ではなく、その歴史は古い。これは児童誌や少年誌で具体的な性描写を避けるために作られたライトなエロ表現であり、藤子不二雄や永井豪といった巨匠も漫画の中で頻繁に使用していたもので、その有用性は「サルまん」にも描かれている。当然、それは性暴力が描かれているわけでもなければ、それを肯定してもいないのは自明である。
そもそも、暴力や犯罪がしばしば描かれる漫画の世界において、性暴力だけが描かれてはならないとする理由はない。あらゆる犯罪行為の責任や法律を、フィクションの中にあてはめてはならない、というのが本来良識ある大人の態度であろう。

一方で、そうした批判を向けてくる女性達の中には、少女漫画やBLの愛好者も多い。しかしこうした女性向けの漫画にも、性暴力的な表現はしばしば見られる。
エロマンガの統計を行なっているサークル「でいひま」さんの調査によれば、ざっくりいうと男性向けでは20%、BLでは10%、そしてレディコミでは40%程度の漫画が性暴力を描写している。逆に言えば、80%の男性向け、90%のBL漫画は純愛などの「健全な」エロ表現によるものであり、レイプ表現が極端に多いレディコミを含めても、必ずしも性暴力を伴う表現はスタンダードではないが、少なくともレイプ・フィクションを嗜好する傾向に男女の有意な差があるとは認められない
「男性向けには強姦表現が多く」「女性はそうした表現を好まない」ということを言う批判者の女性がいるが、これらは完全に誤ったバイアスであると言えよう。

今回のジャンプ漫画の是々非々については、既に多くの方が論じていることなので今更自分が何かを言う必要は感じない。重要なのは何故、こうした女性向け漫画の性描写、性暴力表現を嗜好しながら、彼女たちは少年漫画や男性向漫画の表現を性暴力だ、差別だというダブルスタンダードを平然と振りかざすのか?ということだ。
答えは簡単で「女性向け表現はレイティングやゾーニングがされていないから」である。


自分は、以前からゾーニング有害論を提唱している。
無意味、や不要、ではなく、はっきりと有害であると断言できる。
「ゾーニング理論」なる机上の空論を無垢に信奉する日本では、こうした意見を述べると極論だと反発するものが後を絶たないが、ゾーニングについてきちんと考えたことのある人は、これがいかに危険であるか、既にある程度理解しているものだと思われる。
以下にゾーニング有害論の根拠を示す。

1.「ゾーニング破り」を抑止する機能がない
ゾーニング破りとは「ゾーニングされているはずのものを、ゾーニングの外側に引っ張り出すこと」である。ゾーニングされているものをわざわざ規制するために「こんなものが公然と売られている!」と衆目に晒し攻撃の対象とする、こうした悪辣な行為は今日でも後を絶たない。
実は、これまでも多くの表現規制論が、ゾーニング破りによって引き起こされている。エロ本規制の文脈で「こんなものが売られている」と成年マークつきの本をTVや週刊誌で晒したメディアは枚挙に暇がない。国内に限らず、「レイプレイ」はイギリスで違法に販売された海賊版がきっかけで、本来売ってもいないイギリスから「こんなものを販売するな」と外圧が来たし、AFP通信は日本の同人ショップの18禁エリアに無断で入り込んで成年向け同人誌の写真を撮影し、それを「ポルノコミックが公然と売られている日本」の写真資料として様々なメディアに提供している。
今回のジャンプにしたって、クジラックス先生の同人誌へのバッシングにしたって、本来金銭を対価に買って読むはずの表現物を違法にネット上にアップして、通常それを読まない人々の衆目に攻撃の槍玉として晒しているわけで、これらは全てゾーニング破りである。
そもそもメディアの本質は「隠れているものを暴き立て衆目に晒すこと」である。これはマスメディアもマルチメディアも変わらない。それが人間の義憤を刺激し、快楽感情を喚起させ「社会正義のために隠れた悪を断罪する!」という独善的な人間を扇動するのである。こうしたメディアの性質がある限り、ゾーニングというもの自体がそもそも機能し得ないことは、これまでの経緯を見ても明らかなはずである。

2.ゾーニング・レイティングには特定の表現を「悪しきもの」としてラベリングする機能がある
ゾーニング擁護派は、ゾーニングやレイティングを「棲み分け」だと主張するが、これはまったくの誤りである。それならば、性表現に寛容でない人のための表現を「性嫌悪者向け」としてゾーニングしたり、性表現を伴わない表現を「児童向け」としてレイティングするのでもいいはずである。むしろ、今の日本は未成年の方が圧倒的に少ないのだから、そちらのほうが合理的なはずだ。
しかし、そうはならないのは何故かというと、人々はゾーニングやレイティングによって「悪しき表現」と「良い表現」を恣意的に切り分けているからである。何の根拠もなしに悪のレッテルを貼られた表現には、いくらでも攻撃を加えてよいし、むしろそれが正義のためであるというメッセージを社会に与える性質を持つのが、ゾーニングやレイティングの本質である。だからこそ、先程のような「ゾーニング破り」が正当化され、あるいは助長される。恣意的に嫌いな表現に「悪」のレッテルを貼り、今度は「隠れた悪を暴き立てる」というマッチポンプの再生産によって、ゾーニングやレイティングのラインは無限に拡大してゆく。これは、性表現に限らず「悪しきものをパージする」という善意が、対立と憎悪を駆り立てる起序そのものである。
むしろ「表現の良し悪しを決めていい権利なんか誰にもない」ということを、まず常識として周知するべきではないだろうか。
性表現にしたって「成人向け」「一般向け」に二分されるが、性表現に対して特別嫌悪感情を抱く人ははたして「一般」的だろうか?「成人/一般」「男性/女性」「男性/一般」という区分の仕方が、我々の社会において無意識に差別的なメッセージを発しているとは言えないだろうか。
タバコだって、国民の7割が吸っていた頃は誰も文句など言わなかったのに、副流煙で肺がんになるだの、歩きタバコが子供の目に入るだのと、「それは交通事故に比べて何万分の一の確率なのだ?」と思うような珍妙なことを言い出したあたりから、やれ分煙だ、増税だと極端に社会での風当たりが強くなり、世界でも稀に見るほどの迫害の対象となっている。タバコがそこまで健康に悪いなら今の中高年はバタバタ死んでいるはずであるが、見ての通りの少子高齢化である。一方で、いまだにこの国の駅前のどこにでも賭博場があることについて、国際的に見れば信じられない状況ではあるが、さほど問題視はされていないように思える。
「世の中に当たり前にあるもの」を誰も問題視はしないものであって、それがひとたび「悪しきもの」として隔離されはじめた瞬間から、それは「悪」として攻撃の対象となるのである。まさにイジメの構図と一緒だ。ゾーニング・レイティングはそれを助長するシステムに他ならない。

3.ゾーニング・レイティングをする基準と根拠が不明瞭
ゾーニング擁護派はいつも「こうした表現なら問題ないが、こういう表現はゾーニングすべきだと思う」といった発言をするが、明らかに一人ひとりで全く異なる基準を持っている上に、何をもってそのような基準を提示しているのか、誰も客観的な根拠を説明できた者はいない。誰もが何かしら問題視する表現というのはあろうが、それが万人の意見となって集まるとやがて殆どの表現は禁止されてしまうだろうし、そもそも殆どの人には「自分の基準で表現をゾーニングする」などという決定権がない。これは以下の4点目にも繋がる問題点である。
「自分は問題が無いと思う」「むしろあってほしい」表現が、どうして誰かによってゾーニングされないと無根拠に信じられるのか、自分には理解できないのだが、結局のところ自分に関心のない表現については、誰しも「他山の石」なのであろう。自分は、つまるところこうした社会の無関心こそが、問題だらけの有害なゾーニング理論を正当化せしめているのだろうと思う。
レイティングにしたって、性表現や暴力表現が児童に対して有害である、などという主張のエビデンスは一度たりとも示されたことはない。これは表現を規制する上での「明白かつ現在の危険」の基準に反する。むしろ昨今のアメリカの研究では、暴力表現は児童は児童に悪影響を与えない、むしろ犯罪率を下げる効果があるとすら結論づけられている。当然、性表現についても同じような理論があてはまると考える方が自然だろう。
かつて正義であると信じられてきたことが、実は全くの誤りであったり、むしろ非道な人権否定や児童虐待であった、とされたことなど歴史を俯瞰すればいくらでもある。ポルノや暴力表現に対するゾーニングやレイティングについても、将来的にそのような扱いにならないとは限らない。むしろ現段階では、限りなくその可能性が高いと言えよう。

4.そうした基準を決定する機関が権力化する
そうしたゾーニングの基準を、なるべく明確化するために「審査団体」が作られる。すると、これらの団体の審査に落ちれば表現者たちはたちまち表現の機会を奪われるのだから、誰もそうした団体の意向に逆らうことができなくなり、こうした組織は表現者たちに対して絶大な権力を持つことになる。
こうした組織はしかも、しばしば警察権力が間接的に介入し、場合によっては天下りの温床となってきた。警察が直接的に指導するのではなく、警察の「意向」を受けた人物が審査団体に加わることによって、間接的に検閲行為が容認されてきたのである。表現が権力によって検閲され、「良い表現」とされた表現だけが世に出てくる社会。民主主義を標榜する社会として、問題がないわけがない。憲法で禁止されているはずの検閲が当然のようにまかり通っていることに対して無関心な人々が、人権が、見ない権利がどうこうなどと言っても、まるで説得力がない。
そうした権力化した審査組織の顛末も、また悲惨なものである。警察の天下りを受け入れてまでAVを審査してきたビデ倫の人間は、あっさりとハシゴを外されて、AV会社の役員ともども軒並み逮捕された。
ソフ倫、出倫協、CERO、BPOの人間だって、みんな明日は我が身だ。大事なのは、表現を取り締まることそれ自体が違法であり、重大な人権侵害であることを強く世に訴えていくことであって、国家権力に対して従順な姿勢を示すことではないと思う。

5.ゾーニングラインは絶えず変化していく
「既にゾーニングされているから、もうこの世界の表現は安心」だなんて言っている人を見たことがない。ゾーニングによって表現を社会の表面から排除するということは、殆どの人にとっては、そうした表現を除く「健全な表現」が世界の全てになるということで、その中で生きる人々は残った表現の中からまた必ず「不健全」な表現を見出し、これを新たにゾーニングしようとする。つまり、ゾーニングラインは絶えず後退していくのである。やがては表現文化それ自体が、表の社会に存在できなくなるだろう。
そもそも刑法における「わいせつ」の定義にしたって全く不明瞭で、その時代ごとの社会通念をベースとして取り締まられているのだから、社会が問題視する表現は常に変化するというのが自明である。しかし、そのような不確かな基準によって、表現の有害無害、良し悪しを判断することを当然に受け入れ続ければ、それ自体が社会通念に対して有意に害を成す。「時代に適合しない表現は刈り取っていい」などというのはまったくの独善であり、むしろ、そうした時代・社会のマジョリティに適合できない弱者のためにこそ表現という手段は肝要なのである。

6.ゾーニングは「表現を享受する権利」を侵害する
以前「コンビニ売りのエロ本は成年誌ではない」とTwitterで言ったところ「あれがエロ本ではないとはどういうことだ!」と反発を受けたことがあるが、実際いまとなっては、多くの人は「成年マーク」つきのエロ本の存在を知らないのだろう。それらは18禁エリアのある専門の書店でしか販売されていないので、実質その流通範囲はほとんど同人誌と変わらない。ポルノコミックを嗜好する人達の中でも、おそらく大半の人々はこの「成年マーク」つきのエロ本と、そうでないコンビニ誌の区別がついていないし、「成年マーク」つきエロ本の存在を知らない人もいる。
つまり、「成年マーク」つきでゾーニングされた本が、流通範囲が極端に制限されることによって、成年向けの本を本来見たいと思う人達も、そうした本にリーチできなくなっているのである。
たとえば「暴力表現は北海道でのみ扱ってよい」だって一つのゾーニングなわけだが、そうすると当然本土の人はこうした表現を見たくても見れなくなる。棲み分けとは言いながらも、実際は一方に不利益を与えて表現にアクセスすることを困難にし、経済あるいは思想の権利を制限しているのである。これは典型的な「橋の下で眠る法」だ。
仮にエロ本が、コンビニで成人向けの棚に置かれるでもなく、書店でも普通に店頭に置かれたとして、今と売上が変わらないのであれば「ゾーニング」は正しいということになるが、そんなわけはない。より人目に触れる機会を得られれば得られるほど本が売れるのは当たり前で、それは表現の好悪とは無関係である。エロ本がゾーニングされることによって、エロ本は本来得られるはずの経済的利益を大きく奪われているし、本来エロ本を読みたいと思っている人々も、欲しいと思った時にエロ本を手に入れる機会を大きく失っているのである。
これはTwitterなどで、同じ画像を「不適切画像」のフラグを立ててアップするか、そうでなく一般公開の画像としてアップするかで、RTやfavの数字が10倍以上変わることを見れば瞭然である。普通は、自分が好まない画像やイラストをRTやfavはしない。ならば、「不適切画像」としてゾーニングされたことによって、本来その画像やイラストを見たい、好ましいと思う人間の9割以上が、その画像にリーチできなくなっていることを意味する。
また、世の中にさまざまな表現物があることによって、我々は個人的体験の範囲を超えて社会を理解するわけだが、性表現だけが社会からパージされることによって、そうした表現を好む人々の存在や、そうした性が世の中にあること自体が、社会全体から無視される結果に繋がる。これは性表現を嫌悪する人々にとっても害悪で、社会を意図的に歪められた状態で捉えるということは、社会問題について考える上でも十分にバイアスが起きる。その結果生まれた視野狭窄が、今回のような問題にも繋がっているのであって、実際彼女らは「性表現や暴力表現などなくても誰も困らないし、そんなものを好ましいと思う女性はいない」という重大な認知バイアスを抱えている。そうした偏ったモノの見方をする人々が社会問題について語り合うことで、社会問題の解決がむしろ遠のき、あるいは少数者の存在を無視する結果に繋がるのではないか。


色々述べたが、平たく言えばゾーニングやレイティングというのは、あの悪名高いアパルトヘイトやゲットーと全く同質のものである。単に我々の社会から根拠なく「悪しきもの」とレッテルを貼られた人々や表現をパージし、それを「棲み分け」として正当化して、差別を肯定しているだけだ。
だからこそ、内実は全く同質の表現でありながら、男性向けポルノは、女性向けポルノを嗜好する人々にすら差別され、迫害を余儀なくされる。ともすれば、女性達が男性全般に対して、あるいは男性の性欲そのものに対して差別的な考えを持つこと自体を助長している。それは、男性向けポルノ表現がゾーニングやレイティングを引き受けたことによって生まれた当然の結果だ。
ジャンプの性表現や、コンビニのエロ本が昨今バッシングされているのは、このようにして女性達を中心に蔓延した性差別意識によるヘイトクライムそのものである。
たとえば「北斗の拳」で女性を切り刻んだり裸に引ん剝いたりする表現や、「ドラえもん」で女児の入浴シーンに主人公が入り込むといった表現が看過される一方で、ただ「ゆらぎ荘」で女の子が偶然に裸を晒してしまう表現がバッシングの対象になるのも、単に「ゆらぎ荘」の絵柄が今風で、現在ゾーニングされているような漫画の絵柄に近かったからにすぎない。

一方で、以前にも述べたが、女性向け表現はこうしたゾーニングやレイティングが全くといっていいほどなされていない。BLコミックも、レディコミも、児童も目にするような一般書店に普通に置かれている。
だから、むしろそれゆえに、男性向けと全く同じような内容が描写されていても「これは一般向けだから無害である」というバイアスが生じる。
有害な表現だからゾーニングやレイティングをされているのではなく、ゾーニングやレイティングをされたから「有害な表現として扱われるようになった」のである。


女性向けポルノコミックを嗜好する女性の多くは、いまだ男性向けで行われているゾーニングやレイティングの実態を全くといっていいほど知らないし、はっきりいって関心も持っていない。彼女らの多くは、エロ漫画を単に「男性向けだからゾーニングされている」と考えており、女性向け表現がまさかそのような対象になるとは思ってもいないので、昨今のように青少年育成審議会によってBLが次々に取り締まられていることに対し「大人が読むものを規制なんて!」とトンチンカンな怒りを表明していることも多い。(青少年育成審議会の不健全図書指定は「レイティングされていない一般誌を成人向けとして取り扱う」ことを求める指定である)
もちろん、こうしたことをきちんと理解して、危機感を感じている女性達もいる。しかし依然として大多数の女性たちは、これまでの「性表現をゾーニング・レイティングする」という取り組みに対して、実際はほとんど無関心であったということが浮き彫りになったのが、昨今のエロ表現バッシングではなかろうか。ゾーニングされているものをゾーニングされていないと言い、性表現でないものを性表現だ、性暴力だと言って憚らないのは、これまでのそうした取り組みの議論的蓄積に対して全く無知であることの証左であろう。ほぼコンビニでしか売られていない「一般向」レイティングのエロ本に対して「コンビニでエロ本を売るな!」と吹き上がったのもそういうことだ。あの中身が一般誌と同水準の修正がされていることも知らないし、コンビニ誌をコンビニで売るなという要求が、イコール雑誌を廃刊せよという意味になることも知らない。表現規制派というのは、概して無知なのである。

ここまで読んでくれた人はわかるだろうが、自分は女性向けをゾーニングせよ、レイティングせよと言う気は全くない。むしろ、男性向けをゾーニングしたりレイティングしたりするのをやめろ、と言っているのである。
自分はコンビニの「成人向け」棚の存在自体にも反対であるし、コンビニ向けのエロ本はあくまで一般誌として一般誌と同じように販売すべきであると考えている。その理由は当然、上記のように「成人向け」として販売すること自体に、性表現に対する社会的攻撃や差別を助長する性質があると考えるからである。
一介の商業施設に過ぎないコンビニに「公共性」の概念まで持ち出してエロ本をバッシングしていた者もいたが、公共性を持つ施設なればこそ、なおのこと男性向ポルノも女性向ポルノも、あるいはゲイポルノだろうが何だろうが需要がある限り置くべきなのであって、それを排除することの方が民主主義の理念に反する。「こうしたものを必要とする人たちがいる」という現実を目の前から排除しようとすることが、差別的でなくて何なのだろう。公共の社会は、マジョリティだけが快適に暮らせばいい社会ではない。
これは決して男性向け表現に携わる表現者の中でも多い考え方ではない。むしろ、ほとんど極少数派の考え方に近いことは自覚している。しかしながら、いま存在するシステムが全く合理性もメリットもなく、またこれまでの反差別の議論的蓄積や概念に照らし合わせれば、まぎれもない差別であることは事実だと考えているので、近々の現実論としてではなく、将来にわたって共有されるべき理念として上記の考えを述べていきたい。

男性向け表現が全くゾーニングもレイティングもされていなければ、今よりずっと多くの男女が性表現に触れ、嗜好していただろう。そもそも、男女の性愛を描くポルノに普遍性がないわけがなく、現在でも男性向けエロコミックの作者や読者の、実に3~4割近くが女性であるとも言われている
男性向けというラベリングの貼られている現在においてすらそうなのだから、おそらく本来ポルノとは女性メインのカルチャーになるはずだったのではないだろうか。こと「恋愛漫画」というジャンルの殆どが女性向けに偏っていることを考えると、むしろ女性の方が性愛をテーマとした表現物を嗜好する傾向にあると考えるほうが正しい。それが、無意味なレイティングやゾーニングによって「女子供に有害なもの」というバイアスを与えられたことにより、男性にとってのみならず、女性にとっても、子供にとっても、性の価値観や文化の可能性を著しく狭め、自らの性に向き合う機会を奪ってきたのではないだろうか。
性の在り方が多様であるという常識を共有しているはずの今日において、男性は男性向け表現を嗜好し、女性は女性向け表現を嗜好し、子供には男性向けは有害であるが、女性向けは安全である、などという差別的で雑なラベリングをいつまでも続けるべきではない。男女にも様々な考えの人がいるし、様々な嗜好を持つ人がいて、子供のうちからそういうことを理解することは良いことではないのだろうか。

同じように性表現を嗜好する男女同士で、いがみあうことのなんと愚かで醜いことか。
表現の自由の重要性については今更語るべくもないが、性の充足もまた人によって欠かせない人権のうちである。男女とも殆どの人は当然に性欲を持っているし、それを持つこと自体を禁圧されてはならない。ポルノ・フィクションによって精神的に満たされることを権利として否定するのならば、性の自己決定とは、内心の自由とはいったい何だったのか。
性の自由を訴えてきたはずの女性達が、今では自由な性の抑圧に諸手をあげて賛成し、多くの女性達がそれに同調する一方で、自分達の性表現を棚上げし、性差別を容認する様は、まったくかつての男尊女卑的価値観の転倒にしか見えない。その先にあるのは、男女ともに思想も欲求も禁圧された、窮屈な人権無視の社会に他ならない。

話は戻るが、まるで暴力性を伴わない少年向けの「ラッキースケベ」表現までもが、性暴力である、あるいはそれを助長するなどと言ってしまうことを看過していくと、性暴力という言葉の意味をどこまでも希釈するだろう。かつて性犯罪や強姦の言い換えにすぎなかったはずの「性暴力」という語を、単に絵を描いたり見たりする行為にまで援用しようとすれば、やがてそれは「性的搾取」や「家父長制」などと同じ、特に意味内容や学術的根拠を持たないフェミニズム・ジャーゴンの一つに成り下がり、かつて救済しようとしてきた「本当の」性暴力の被害者達を、むしろ救済の手から遠ざける結果にも繋がる。なぜ今日フェミニズムがカルトのように扱われているかと言えば、フェミニスト達のそうした「自分達の間でしか意味が通じない言語」を「自分達で勝手に作って」、「さも理解できない相手が悪いかのように論難する」手法が、完全にカルト宗教のそれと同じだからだ。もし、自分がそうしたカルトにハマっていないとするならば、自分達が他者を論難する時に向けてきた言葉を、本当に自分できちんと定義できているか、それが他者と共有できているか、自分自身には当てはまらないか、きちんと考えてみるといい。
BLの10%、レディコミの40%が性暴力フィクションであると先に述べたが、今回のように「無意味にキャラが裸になったり、アクシデント的に脱いだり、またはそれを異性に見られる」といった基準にあてはめると、BLどころか、少女漫画やTLまで含めた大半の女性向漫画アニメは性暴力フィクションであるとすら言えてしまう。特に恋愛漫画を描写する傾向の多い女性向けでは、有意にこうしたシチュエーションの発生確率が高くなり、ともすれば女性の方が性暴力表現を嗜好するという結論にもなるだろうが、本当にそのような議論的決着を望んでいる人がいるのだろうか。
己のミサンドリズムを満たすためだけに、このような差別的な攻撃に加担することは、ひいては女性の声や人権運動そのものが危険視され、差別主義と同一視される社会を築いていくのではないかと思う。「女性差別」や「性暴力」というマジックワードを振りかざせば社会がなんでも聞き入れてくれる時代は、いまや終わろうとしているし、終わらせなければならない。それは一部の女性にとってとても安易な手段ではあるが、しかしながら逆説的に性差別を肯定しかねない論理だ。男とか女とか関係なしに、差別とは、人権とは何だったのか、もう少し慎重に、そして真剣に一人ひとりが考えていくべきだ。
その中で、ゾーニングやレイティングのような、今日ではまるで正義のように語られながら、しかし明らかに差別性を内包するシステムについても、改めて検討し直してもらいたい。

漫画の違法翻訳について


日本の漫画の翻訳を仕事にしている人が、プロの漫画家が違法翻訳(スキャンレーション)についてどう思っているか意見を募っていた。
おそらく凡その意見は「違法翻訳許すまじ」一辺倒に集約されるのではないかと思うのだが、自分はこれについて独特の見解を持っていて、違法翻訳の全てを必ずしも問題視してはいない。
意見を発信することは大事である。だからご興味のある方は、先程の方に是非ともDMを送られるとよいと思う。ただこうした意見はネットで公開されると極端な二元論、すなわち「権利者の敵か、味方か」のような雑な理論に回収されやすいので、あまりネットですべき議論ではないように思う(窮屈な話だが)。

確かに著作権、著作権者が守られないこと自体は問題だ。本来権利者に与えられるべき利益が毀損され、作品によっては何万、何十万という違法ダウンロードが行われ、そのぶん対価を払わずに作品を享受している違法ユーザを看過すべきでもないとは思う。それは同時に、正当な対価を支払って作品を享受してくれている正規ユーザに対する責任でもある。

しかしながら、著作権というものはまだ未成熟な概念で、守られれば守られるだけ良いというものではない。昔のMIDI文化潰しやコピーコントロールCDで音楽業界が自滅したことは事実であるし、その結果今日ではミュージシャン自らネットに音楽をアップし、一人でも多くの人に聴いてもらおうと宣伝する必要に迫られている。Winny開発者の逮捕は日本のP2P分野の発展を10年は遅らせ、その間にアメリカのP2Pサービスが世界を席巻するに至った。
2chのゲーム配信や、ニコニコ動画、Youtubeなど、今日のネット文化産業の基礎を築いてきたサービスだって、黎明期には著作権違反コンテンツの温床だと言われていた。著作権者がいたずらに権利を振るい、それらのサービスを初期のうちに潰していたら、今日のネット文化の発展もなかっただろう。日本のゲーム産業だって、その黎明期にはアタリ社のコピーゲームを国内で売ることで利益をあげて発展してきたし、アタリの「ブロック崩し」のコピーはやがて「インベーダーゲーム」へと進化し、日本のゲーム文化の礎を築いた。そんな時代に任天堂の社長は「遊びにパテント(特許)はない」なんて名言を残していたりもする。
ここらへんの話については以前、一度こちらの記事で自分の考えを述べているので、非常に長いのだができれば参照されたし。


以上のことは漫画においても言える。
そもそも全てのユーザが、必ずしも漫画にアクセスできる環境にあるとは限らない。上記の記事でも書いたが、ポルノ漫画が違法であったり、あるいは単に漫画そのものが違法であったり、自国の言葉で読める環境になかったりする国は非常に多い。
そうした人々から違法翻訳を取り上げたところで、別に正規品が読めるようになるわけでもないし、これまで違法な手段ながらも日本の漫画に親しんできたユーザを排除することで、結果的に日本の漫画文化への国際的な理解を阻害する結果にも繋がりうる。日本のように多様な漫画表現があることに対しては、いまだ国際的に十分な理解があるようには思えないし、今日の小説や映画と対等に扱われているようには自分には感じられない。依然として、それらは軽薄で、子供向けで、あるいは無秩序であるように捉えられ、それゆえに一部の漫画表現それ自体が法的な理由で許容されていない国々が世界中にあるわけである。
あるいは未成年のように、法的にポルノ漫画へのアクセスが許されていない人々もいるが、かつて河原でエロ本を拾ったように、今の若者だってネットでエロ本を拾ったって自分は構わないと思う。そのアクセスを完全に遮断したところで、将来的にエロ本文化に馴染んだり理解を示したりするようになるとは思えない。むしろ我々は、子供の頃の原体験的なエロを心に抱き続けているからこそ、大人になってからもエロコンテンツに接し続けるのではないだろうか。かつて大人の目を盗んで買った美少女ゲーム雑誌や、少年コミック誌の隣に売っていたBL同人誌アンソロジーが(その行為の是非は置いておいて)、男女問わず大人向け漫画コンテンツの礎になってきた可能性は否定できないだろう。子供の頃触れる二次元エロコンテンツが、エロ漫画ではなくエロMMD、エロVRへと変わっていった先には、漫画産業そのものの衰退があるように自分には思えてならないのだ。

違法なコンテンツを享受するユーザが、なぜこうも問題視されるほどに数多く存在するかと言えば、そこには当然需要があるからである。需要があるということはマーケットが存在するということ、ビジネスの萌芽があるということだ。アメリカのFAKKUはかつて日本の漫画の違法アップロードサイトであったが、日本の出版社と正式に契約することで正規の販売サイトとして「健全化」された。
可能であれば、他の違法アップロードサイトでも同じことをするべきではないか。かつて違法コンテンツの温床であったニコニコやYoutubeに広告を入れたり正規の権利者と契約することで文化を発展させてきたように、漫画業界も単に著作権を振りかざして違法なコンテンツを新規ビジネスの芽ごと潰すのではなく、そこにあるマーケットを活かす方法もあるのではないかと自分は思う。
違法であること自体はたしかに問題視されるにせよ、そこには確かに漫画を読んで楽しんでくれているユーザがいるということで、それ自体は歓迎すべきことだ。かつての音楽業界のように、その文化産業そのものを享受しているユーザを犯罪者のように扱うべきではないのではないか。

おそらく凡そのコンテンツビジネスというものは、黎明期は権利についてとやかく言われず好き勝手に利用され、そこに「面白いものがある」と人が集まってくることでビジネスの萌芽が生まれ、やがて回る金の量が増えてきて、コンテンツの内容も洗練されてくるとそうした風潮が看過されなくなり「健全化」されていき、やがてコンテンツは成長するものから守るものへとシフトし、次第に老人のためのものとなったコンテンツは若者から飽きられて廃れていく……という成長過程を辿るものなのではないかと自分は思っている。そうした過程を少しでも延命するためには、コンテンツがいつまでも享受されるためには、そうした煩雑な権利的拘束のない自由こそがある程度必要であるように思う。
違法コンテンツというのは、これも自分なりの考えだが、コンテンツビジネスの外縁である。違法なコンテンツが普及するということは、同時にマーケットの可能性が広がっていることだとも自分には思える。だって、そのコンテンツを享受するユーザは確実に増えているのだから。そこを完全に潰せば、マーケットの成長の可能性を潰すことにも繋がりかねないとすら思う。

違法コンテンツは概して合法な手段よりも便利である。ネットで欲しいと思った時に検索してすぐ出てきて、その場ですぐ手に入るのだから、これ以上便利なことはない。彼らは金を惜しんでいるというよりは、むしろ手間を惜しんでいるのだろう。本当に金が惜しくて違法コンテンツを享受しているのであれば、あんなに金をジャブジャブつぎ込む課金ゲームが流行るわけがない。もともと漫画はそんなに高額なものじゃない。本当にユーザが求めているのは、読みたい漫画がいつでもどこでもボタン一つで読める環境のほうである。
権利者はそうした「便利さ」を求める違法ユーザに合法で不便な手段を強いるのではなく、いまそこにいる違法ユーザに不便を感じさせることなく、プロセスだけを合法化する手段を模索することもできるのではないだろうか。せっかく頑張って作ったコンテンツを楽しんで享受してくれているのだ。それを「犯罪者め!」と恫喝するのではなく「こっちにもっと便利でクリーンで楽しいコンテンツがありますよ」と誘導できれば、それが一番望ましい。
その上で、違法な手段でしかコンテンツにアクセスできない人々のためには、多少不便でも違法なコンテンツを残しておく。そうした人々が将来的に合法的手段によってコンテンツを享受できる環境になった時、人々は便利さを求めて元々享受してきたコンテンツを合法的に享受するようになる。これが理想論といえば理想論ではあるが、理想的なコンテンツビジネスの形態であろうとは思う。

以上のようなことを、おそらくもっと頭の良い人達はとっくに考えている。ただネットの雑で未成熟な議論の中には流れてこないだけで、今後のコンテンツ管理の在り方を、凡庸なネットユーザのように「権利者」と「海賊ユーザ」の単純な二項対立で捉えてはおそらくいないだろう。自分も当然以上のような内容をわざわざSNSで言ったりしない。SNSでは言えないことをここで記事にしてるのだ。SNSブームのコンテンツとしての寿命もまた決して長くないであろうことを思わせる。窮屈な場に、人はわざわざ住まないのだ。

日本におけるマスキュリズム(男性差別反対運動)の必要性

ネット言論の場において、フェミニズムに対する批判が俄かに活発になってきている。

自分もラディカルフェミニストの代表的主張の一つである「ポルノの敵視・廃絶」によって、これらの問題と職業上無縁ではいられなくなった。「ポルノは理論、レイプは実践」「全てのセックスはレイプ」などといったラディフェミの性嫌悪的・暴力的言説は、同業者やファンの男性の経済的あるいは思想的自由を著しく侵害するばかりか、セックスワーカーや性表現に携わる多くの女性に対する侮辱でもあると自分は感じている。

多くのフェミニストは、こうした一部フェミニストの行き過ぎたミサンドリー言説を「ミソジニーが蔓延している社会なのだから、その対抗言論に過ぎない」と容認的だ。
差別の問題は、その差別をまず社会に認知してもらうまでが最も困難な道のりである。女性差別も黒人差別も同性愛差別も、まずその根源にはモラルや道徳があり、あるいは知的に劣っている、あるいは犯罪率が高いなどの「科学的」「統計的」根拠が与えられ、それを正当な扱いであるとする「良識」があった。であれば、女性差別を訴えればとりあえず耳目を集められる今日の女性差別問題よりも、日本社会においてほぼ認知すらされていない男性差別の問題の方が、より深刻な問題を孕んでいる可能性が高い。弱者は常に我々に見えない場所にいるのだ。

フェミニストは自分達の活動によって遥か昔に男女の法的平等が達成されたように思い込んでいるかもしれないが、今日我が国においては、いまだ男性にのみ不当な扱いを課す法律や司法判断が珍しくない。
こと性犯罪についてもそうだ。性犯罪はその性質上、合意の上であれば犯罪にならない行為を犯罪として取り締まるわけで、それは国民の内心を推定することに繋がり、さらに客観的証拠の挙がりづらさもあいまって、そこに権力の予断や推論が入り込みやすく冤罪の温床になりやすい。それは性犯罪という犯罪に対する忌避感情とは全く別個の問題である。
しかし昨今の「痴漢冤罪」を巡る問題一つ取っても、もう10年以上も前から司法の問題については指摘されてきたというのに、一向に問題は改善されない。冤罪とは本来、法治主義の秩序を守る上で一件たりともあってはならないことである。「疑わしきは被告人の利益に」という法治主義の大原則を捻じ曲げ、ひとたび冤罪の存在を許容すれば、正当な法治の裁きすらも形骸化してゆき、実質的に犯罪や私刑に容認的な社会感情を醸成していき、法治国家の根幹から揺るがしてしまう。だが、女性達が概してこうした問題に対し「男性の過剰反応」と冷ややかなのは、やはり自分達がその被害者になる可能性がほぼゼロだからであろう。
痴漢に限らず、性犯罪の問題というのはジェンダーの問題をしばしば包摂する。男性は性犯罪に殆ど遭わないと考えられているが、一方で女性は性犯罪の加害者として疑われることがまず無い。男性にとって性犯罪は無実の自分が糾弾される可能性を持った不安材料であり、女性にとって性犯罪とは無条件に糾弾できる(自分が糾弾される側にはなり得ない)問題なのである。誰しも「自分がまず被害に遭わない犯罪類型」について関心を払わないのはある意味仕方のないことだ。どんなに凄惨な人権侵害が起きていても、我々がチベットの民族浄化や中東の戦争に対して、必ずしも我が事のように共感できるわけではない。しかし、こと痴漢や性犯罪については少なくとも建前上は「許せない犯罪」と殆どの男性が言う一方で、冤罪については今なお殆どの女性は無関心だと言っていいだろう。
こうした非対称性に対して、しかしながらいまだに保守的な価値観を持った司法や行政権力は、とりあえず「弱者である女性を保護する」という視点で行動しがちである。結果、司法の場において男性は明らかに不利な立場に置かれることが多い。
DVや児童虐待の問題についても同じで、昨今の研究ではDVや児童虐待の加害者は男性よりむしろ女性が多いことが明らかになっているにも関わらず、男性のDV被害者へのケアはほとんど省みられることなく、一般男性が児童に接近することや、男性保育士などに対する偏見も根強い。
今日までに築かれた知見では、かつて「Only Man」だと思われていたことの殆どは単なる誤ったバイアスであったと証明されている。女性も性欲があり、児童に性的関心を持つこともあり、男性と同程度には暴力的で、同程度にはポルノを嗜好し、同程度には児童虐待に加担するのである。男女の差など、様々な貧富や能力の個人差に比べれば本当に些細なことなのかもしれない。であれば、あるいは性犯罪も、今日ではほとんど男性によって行われているように見えているが、実際には女性による性犯罪のほとんどが見過ごされているだけなのかもしれない。

日本の男性の幸福度の低さは、今日深刻な状況にある。

本邦においては、女性の幸福度が先進国の水準と比べても高いのに、男性のそれは国際的に見て極端に低く、イラクやエジプトといった紛争地域のそれと同水準である。自殺率は女性に比べ極端に高く、平均寿命は短く、危険な労働に従事される割合や、ホームレスの割合も圧倒的に男性が多い。そしてなにより、誰もそうした問題を男性特有の問題として関心を払ってきていないのである。
先の3月8日には、女性の政治的自由と平等を訴える「国際女性デー」があった。
日本における「国際女性デー」の歴史は古く、社会主義フェミニスト団体である赤瀾会が開催してから実に100年近い歴史がある。しかしながら一方で、1999年に始まった「国際男性デー」はいまだ日本で行われたことがない。
女性を「女らしさ」から解放せよと謳いながらも、我々の社会は男性を「男らしさ」から解放することはなく、稼得の責任や家長の責任はそのままに、過酷な労働と貧困な社会保障の元で飼い殺し続けている。婚活市場でも、男女のあらゆる出会いの場でも、常に男性ばかりが高い金額を支払わされる側にある。それは男性が「稼ぐ性」「養う性」としての責任をいまだ背負わされていることの証左でもある。

日本に本当に必要なのはフェミニズムではなく、またそれを批判することでもなく、「マスキュリズム(男性差別反対運動)」なのではないだろうか。

日本のネットにおいて「ミソジニー」と一括りにされる言説をよくよく眺めていると、彼らが本当に言いたいことは「女性を差別せよ」ではなく「男性を差別するな」ではないかという気がする。現に彼らの主張内容は、おおよそマスキュリストの代表的な言説としばしば酷似している。

実はこうした議論は、アメリカなどでは既に20年以上も前から起きている。
日本でまだ議論の未成熟な「男性差別」に関する書籍の殆どは、洋書の翻訳に頼ることになる。代表的なのはワレン・ファレルの「男性権力の神話(The Myth of Male Power)」である。まだ単価が高いが、これは間違いなくこれからの時代の日本男性が読んでおくべき本だろう。よりアクセスしやすい価格で普及することを願う。

また、近年の本ではこういうものもある。
いずれも、アメリカで家族学を修め、日本における「男性差別」問題の第一人者となった久米泰介氏の訳書である。

日本でこうしたマスキュリズム運動や、それ以前のメンズリブに対する社会的な関心は薄い。ほとんど全くといっていいほど省みられていないどころか、まるで知られてすらいないと言える。
そもそも――フェミニストやジェンダー論者の側が半ば無意識的に男性を排除してきた側面はあるにせよ――両性の平等とジェンダーロールからの解放という極めて社会において重要なファクターについて、女性にのみ議論を任せてきたこと自体が、男性にとって致命的な間違いではなかったのだろうか。
男性だけの議論の場で両性の平等が図れないように、女性だけの議論の場でも両性の平等は実現し得ない。「女性差別」を主題とした議論の場が、女性の視点に偏るのは考えてみれば当たり前の話である。フェミニスト達が「ホモソーシャル」として批難してきた内容は、そのままフェミニズム言論の場それ自体にあてはまるのである。それが男性差別を生むとしても、それは当然の話であって、むしろ「男性を差別するな」とフェミニストに向かって言うこと自体が間違いだったのではないか。フェミニストはあくまで女性差別を解放するための運動体であるので、男性に対してそのような責任を引き受ける義務はない。本当に男女平等を達成したいのであれば、ただ女性達に「男女平等」のための運動を任せっきりにするのではなく、むしろ男性達こそが立ち上がらねばならないのだ。
「男性差別」の視座がないことが、フェミニズム議論自体の劣化をも招き、とりあえず何でも男性が悪いことにしておけば全て丸く収まるような、ほとんど自家撞着とも言える低質で差別的なフェミニストの言論をまかり通してきたのではないだろうか。

このような状況を生み出した原因に、一つは日本全体の保守的傾向があるだろう。今日ではフェミニズムそれ自体が、「男は強くあらねばならない」という家父長的男性による「やせ我慢」によって社会に受け入れられているようにすら思えるが、伝統的家族観の中では古くから男は男らしく、女は女らしくといったジェンダーロールに「男女とも平等に」抑圧されてきた。それはそれで(その是非はともかくとして)一つの男女平等の形ではある。
実際、必要以上に自由を与えられるよりは、はじめから役割が固定されているほうが、自分で生き方を決められる意志の強い少数のエリート以外の、ごく平凡な大多数の人々にとっては幸福であった側面もあろう。心理学の世界では「削除された選択肢の魅力」などとも呼ばれるが、人は自由が与えられるほど、失われた選択肢に悔いることが増えるのだ。
しかし、女性達はそれを「女性差別だ」と言った。そしてジェンダーロールからの解放を訴えてきてはや一世紀が過ぎた。今更家父長制に回帰せよとか、自由を失くして役割を固定化せよと言っても世論の、特に女性の共感を得ることは難しいだろう。
ならば、男性達もまた「男性差別」の訴えを起こさなければならない。稼得能力者としての責任や強者としての役割の押し付け、忍耐を強いられることから解放され、また男性に対する法的・社会的に不平等な扱いや、しばしば男性の性や性欲自体に向けられる不当な蔑視、無実の大多数者を犯罪者予備軍のように扱ってきた差別的言説をこそ糾弾するべきではないか。

もう一つの原因は、そもそも日本人にとって権利運動が身近ではないことだ。今日の日本人の人権は日本人が勝ち取ったものではない。人権とは憲法によって保障された自由や権利のことで、不当な権力の介入から個人を守るものだ。しかし日本において、それは戦後アメリカの主導によって導入されたもので、民主主義革命によって血と死と引き換えに成し遂げた功績ではない。このことが、「良識的な」日本人を人権闘争から遠ざけ、人権について語ることから遠ざけてきていた。60年代の安保闘争の顛末がそれに拍車をかけ、今では多くの人々が自ら人権のために戦うことにひたすら無関心になり、経済的利益だけを邁進するようになったように思える。
海外に行くと、デモやストが驚くほど頻繁に、時に野蛮にすら見える形で行われることに驚く。警察や公共交通機関といった、社会にとって無くてはならない機能ですら、しばしばストによってその機能を停止する。しかし欧米社会の常識では、人権とは自ら闘争して守るものだ。日本においては男性に限らず、女性もまた権利運動に積極的ではない側面がある。だからこそフェミニズムのような権利運動もまた、一部の極端に偏った視点を持った人々によって主導され、それがまた多くの日本人に白眼視され、あるいは誤った解釈が流布する原因となってしまう。本来、民主主義社会においては市民全てがコミットしなければならない問題について、一部の声の大きな者達にのみハンドルを委ねてしまうことによる弊害である。これは人権問題に限らず、日本の政治全般、労働問題全般にも言えるだろう。

我々は、もっと人権を守るための試みに積極的でなければならない。男性も不当な性差別にはっきりと抵抗を示すべきであるし、女性もただ己の男性嫌悪や差別意識を正当化するために「女性差別」のロジックを安易に利用すべきではない。

フェミニズムが何故今日のような嫌われ者になってしまったか。それはフェミニズムそれ自体が「スタンフォード監獄実験の看守」的役割を女性に与えるからだ。フェミニズム言論の中で、女性自身は決して批判の対象にならない。女性達は男性に対して常に批判者、断罪者の立場を取ることができる。そして批判内容にとって都合の悪い女性が存在すれば、それを「名誉男性」と定義し「女性」の枠組みから外すことで正当性を維持する。
そのような言論がさも正当な言説であるかのように世間に流布すれば、自らを「看守」の役割であるかのように自己規定した女性達は当然に傲慢さを持ち、他者の内心やふるまいを容易い気持ちで断罪するようになっていく。それは女性達が悪いのではなく、一方的な批判者の立場を与えられたことによる認知の歪みである。今後マスキュリズム議論の発展によって、フェミニズムが正当な批判に晒されるようになれば、必ずフェミニズム言論もまた健全化への道を歩み、男女平等の社会により近づいていくのではないだろうか。

ここで理解してもらいたいのは、男性差別の問題の解消は、女性にも間違いなく自由と生きやすさを与えるであろう、ということだ。これはフェミニスト達が「フェミニズムは男性も生きやすくする」と言ってきたこととまったく同じである。
人間には男と女しかいない。性的少数者の存在を鑑みても、肉体的には(あるいは精神的にも)男か女かのいずれかに括られる。であれば、一方の発言だけで議論が正常に進むことなどありえない。
世の女性達が男性から受けてきたジェンダーの抑圧は、また男性達を抑圧してきたジェンダーロールの裏返しでもある。男性がそれらの差別や抑圧から解放されれば、男性達のジェンダーバイアスへの意識も啓発されるとともに、女性達に対する「あいつらばかりが自由になるなんて許さない」というような糾弾の声も起きなくなっていく。と同時に、これまでは女性だけが「反差別」の声をあげることで、かえって雑多な議論、あるいは過剰な暴論までも包摂されてきてしまったものが、適切な反論を受けることによって健全化されうる。

男性達もまた、個々の目先の議論に対して不毛な言い争いをするのではなく、自分達の受けている不当な扱いや差別について、きちんと実態を調査し、まとめ、発信する運動体を確立していく必要に迫られている。今日ネットで起きている諸議論は、まさに先進諸国に20年遅れではじまった、その過渡期なのではないだろうかと思う。

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ジャンプ編集部に向けられた「セクハラ」という名のマウンティング:追記

前回のブログ記事の内容について、補足。
 
どうも自分の観測範囲で、そもそも「ジャンプ編集部に男しかいない」こと自体を問題視する人達がいたので、それについて思ったことをつらつら。

俺は「男のための世界」「女のための世界」というのは、それが権力性を伴わない限りは守られるべきものだと思う。
それをホモソーシャルだ何だとフェミニスト達は非難するだろうが、たとえば逆に少女漫画やBL漫画が「最近は男性も読むらしいから、男性読者の目線も意識しよう、男性が不快になるような表現は避けよう」となったら、表現の軸がぶれてしまうし、本来ターゲットとなっていた人々の存在を軽視することにも繋がる。
男性向けの漫画は男性のためにあるのであり、女性向けの漫画は女性のためにあるのであって、そのどちらもが世の中にあることが素晴らしいとは思うが、そのどちらもが常に両性のためにあるべきだとは思わない。そこを履き違えると、「女子会に男も混ぜろ」と言っているのと変わらないだろう。

実際には、少年漫画やエロ漫画を読む女性もいれば、少女漫画やBL漫画を読む男性も沢山いる。最近は特に、コミックの電子化によってエロ漫画を読む女性達も増えて、自分の漫画を読んでくれている、知ってくれている女性も沢山現れるようになって、なおさらそうしたことを強く意識するようになった。
しかし、そこはあくまで「男性向け」「女性向け」の表現だからこそ、それらを目的として作られた表現物を楽しんでいる層であって、じゃあ男性向けエロ漫画を女性も沢山読んでいるようだから女性目線の内容も取り入れよう、となればそれは単なるレディコミと変わらなくなってくるだろうし、それではそれまでエロ漫画を楽しんで読んできた女性だって落胆することだろう。彼女らは「男のための世界」を覗き見することこそが楽しかったのではないのか。それは少年漫画においても同じことが言えるだろう。
世の中には、女性が暴力をふるわれたりレイプされたりするような漫画を嗜好する女性だって、みんなが思っているよりも沢山いるのであって、そういう女性だっていたっていい。うちのアシスタントの女性だって、朝凪先生の大ファンだと言う。「全ての女性は女性に対する暴力表現を好まない」なんて公言したら、それこそ知るかバカうどん先生とかに笑われてしまう。大体、男性だって「男性に対する暴力表現」を好む層がいるからこそGirlsForMみたいな雑誌が生まれるのであって、女性が必ずしもそうでないということなどありえない。

表現の受け手、作り手に、本当は男女の垣根はないと思う。ただ、作り手側はその表現が一体どこをターゲットにして作られているものか、ということをきちんと意識していないと、きちんと筋の通った創作ができなくなってしまう。少年ジャンプ編集部に男性しかいないのは、たとえどんなに女性読者層がいようが「この雑誌はあくまで男の子のための雑誌なんだ」という軸を変えないための、一種のプロ意識のようにも感じる。
だからあの雑誌は素晴らしいのであって、あの表現を楽しむ多くの女性達もまた存在するのだ。むしろ、そんな環境から作られた「男の子のための漫画」があれほど女性達の支持を得てきたことは素晴らしいことではないか。そこをはき違えて「女性だって読むのだから女性に配慮せよ」というのは、それこそ女子トイレにずけずけと押し入る男性のようなものだ。

当の発端となった漫画は既に削除されてしまっていたが、自分はこうした問題が起きたことでむしろジャンプ編集部を賞賛したい。男の身内な下ネタ、結構じゃないか。ジャンプは「男性の目線」しか意識していないからこそあのような表現が生まれたのであって、それこそがジャンプの価値そのものなのだ。ことさら何事につけても「女性の目線」なんてものが求められる昨今で、そうした意識を守っていられることこそがジャンプという雑誌の優越性であるようにすら思う。



最後に、直近で話題になった「フェミニストの女性ポルノ監督」の記事を紹介する。

男女平等、女性の社会進出が謳われて50年以上が経ち、これまでも既に沢山の女性が、被写体としても制作者としても、実際にはポルノ産業に関わってきたというのに、今になって「女性の新しい視点を取り入れる」などと言っていることは、むしろカビ臭い昭和時代の価値観にすら感じないだろうか。ポルノが変わってこなかったこと以上に、フェミニズムがこの50年の歴史の中で変わってこなかったことをこそ感じさせる記事だった。
今の時代、女性の視点なんてものは目新しいものでも何でもない。むしろ一部女性の意見を見て「女性全体の視点」だと思い込んでいることこそが、女性の多様性を見落としているのではないか。「男による、男のための世界」がそのままの姿であることにこそ価値を見出す女性達だって、沢山いるはずなのだ。
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