「痴漢問題」に建設的な議論を。

痴漢に安全ピン問題(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190524-00010020-abema-soci)をめぐって、今日もSNSでは不毛な議論が続いている。

先日も、まだ痴漢の容疑が確定する前の、駅のホームで逃走する男性の動画がSNSで面白半分に拡散され、沢山の支持と、一部の顰蹙を買っていた。(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190530-00009702-bengocom-soci
こうした問題について議論することの大好きな人たち、特にSNSに遍在するミサンドリー女性たちの間では「最近では微物検査が導入されて痴漢冤罪など起きてない」という話がいまや確固たる事実であるかのように受け入れられているようだが、これは全くのデマである。冤罪の起きえない犯罪などない。(https://twitter.com/lawyernakahara/status/1131186166013652998)(https://twitter.com/todateyoshiyuki/status/1135555130210770946

上記ツイートにもあるように、おそらくはテレビによく出る弁護士が言っている、このような内容(https://dogatch.jp/news/ex/46757/detail/)を鵜呑みにしたものだと思われるが、現実には微物検査はあくまで客観証拠の一つにすぎず、それ自体で有罪無罪が確定する性質のものではない(https://www.bengo4.com/c_1009/c_1196/b_802133/)。そもそも実際に行われている強制わいせつ事件だって微物検査をやって証拠が出ないようなケースも多々ある。微物検査の結果だけですぐさま無罪が確定してしまうとしたら、それはそれで問題だ。

殆どの女性達にとって、痴漢冤罪は所詮他人事なので、単に「痴漢として一度有罪判決が下ったが後に冤罪と判明した事件」がここ数年表出していないことを指して「痴漢冤罪がない」と主張しているのかもしれないが、痴漢冤罪問題の当事者たる男性達は「そもそも鉄道警察あるいは私人による逮捕の時点で社会的信用や地位を回復不能なまでに喪失しうる」こと、「日本の非民主的な取り調べや尋問によって、やってもいない罪を認めさせられることが過去にも多発していること」を問題視しているのであって、それは先のような動画が、まだ報道すらされてない段階で興味本位で拡散されてしまう現状や、まだ裁判前の容疑者があたかも犯罪者であるかのように本名も顔も晒されて報道されてしまう日本の報道姿勢を鑑みると、まったく当然の懸念であると言えよう。また、現時点で痴漢で有罪が確定し刑罰を受けている人間だって、いずれ冤罪が判明しないとも限らない。

そもそも微物鑑定なんてものは、痴漢の取り締まりが本格化する90年代より以前から既に行われている古典的な科学捜査の手法であって、元々は痴漢とは別の犯罪行為を捜査するために行われてきたものだ。「最近では微物検査が導入されて~」はまずここが誤り。
たとえば長崎事件(1997年)のように、科捜研の微物検査で繊維が出たことで有罪を推定されたものの、不審に思った弁護士が改めて民間企業に検査を依頼したところ「繊維の太さが倍以上違う」と言われて無罪の証拠となった事件もある一方で、三鷹バス事件(2011年)のように、微物鑑定をしても繊維が検出されず、車載カメラで痴漢が不可能な状況にあった記録があっても一審で有罪判決が下されてしまった事件もある。有名な痴漢冤罪には他にも防衛医大教授痴漢冤罪事件(2006年)があるが、この時も微物鑑定が行われて証拠が出なかったにも関わらず一審で実刑判決が下っている。「微物検査があるから冤罪は起きない」なんて話は過去の痴漢冤罪事件にまるで関心のない者の与太話、妄言の類であり、そもそも「微物検査」が確固たる無罪の証拠になるのならば、はじめから痴漢冤罪などという問題自体が起きてないし、「それでもボクはやってない(2007年)」なんて映画も作られてないだろう。
「近年になって微物検査の精度が上がった」という指摘も失当である。上述した97年の長崎事件ではそもそも民間の企業は繊維の太さの違いに気づいているのであって、当時の検査精度でも無実が証明できたはずなのである。あくまで科捜研の杜撰な調査の結果であり、日本の警察能力、ひいてはそれを証拠として採用してしまう検察の問題だ。
そこには「有罪率99%」という異常な数値(日本人はこれを当たり前に受け入れているが、これはナチスの人民法廷や、北朝鮮のような独裁国家における裁判を上回る有罪率である)を維持しようとするあまり、不利な証拠は隠す一方で、雑な証拠も必要とあらばでっちあげると言われる、日本の警察や検察の姿勢そのものの問題があり、それを支えてしまっているのが、有罪判決を待たずに、逮捕の段階でまるで犯罪者であることが確定したかのように報道し、容疑者段階の被告に著しい社会的制裁を与えようとする日本のマスメディアの姿勢だ。ようするに、ともすれば刑罰よりも重い制裁を第四の権力たるメディアが私刑的に行ってしまっていることで、裁判というプロセスそのものが軽視されているのだ。

何故あれほどまでに性犯罪の無罪判決に怒りの声をあげていた女性達が、事ここに至って日本の司法の判断に全幅の信頼を寄せるに至ってしまったのか。あの時だって既に無罪が確定した被告人を、勝手に有罪推定して扇動的な報道をしたのはマスメディアだ。性犯罪に対して高い問題意識を持っているにしては、あまりにもメディアの表層的な意見に振り回されすぎではないか。
痴漢冤罪の問題にしろ、痴漢を減らす方法にしろ、ネットでちょっと調べれば出てくるような基礎的な知識にほとんどアクセスした形跡のない人たちが、SNSで「痴漢許せない」と吹き上がっているのは何故だろう?

痴漢は再犯率の最も高い犯罪の一種とされているが、そのほとんどはDSM-5において窃触障害(Frotteuristic Disorder)という精神医学的障害の一種とされており、実際痴漢のほとんどは軽度な知的障害を持っている(というか刑法犯の平均IQは70前後とも言われているように、犯罪者全般が知的障害の傾向が強い)とも言われている。露出症に準ずる治療法により治療することが可能とされており、実際に治療によって再犯率を劇的に下げることに成功している実績もある一方で、単に刑罰を与えるだけではむしろ再犯率を微増させると言われているのだが、世の女性達は一般的に犯罪抑止効果がないと言われている厳罰化ばかりを求めているように見える。
先の日本司法の性質を鑑みると、厳罰化することはむしろ「誤って逮捕した時の人権侵害の程度が重くなる」ということであり、「よほど確実な証拠がないと起訴しない」という検察の姿勢を招き起訴率をさらに押し下げる一方で「一度起訴したからにはどんな証拠をでっちあげても有罪にする」という態度を招き冤罪を増やすばかりで、犯罪そのものの抑止力にもならないばかりか、問題解決を遠ざけるだけだと思うのだが。例えば「外患誘致罪」だって法定刑が死刑しかないせいで、戦前戦後を通じて一件も適用された事例のない形骸化した法律であり、そのせいでかえって「スパイ天国」とまで言われるような我が国の状況を作り出すことに加担してしまっている。「強姦罪(現在は強制性交等罪)」についても近年厳罰化の流れが続いているが、これもやがて法定刑が死刑だけになったら、それこそミサンドリスト達の主張する「レイプ天国日本」が実現しかねない。とにかく重い罪を科せばいいという考えは、単に犯罪者を罰したいという市民感情を癒すだけの効果しかなく、犯罪抑止には役に立たない、というのはもはや刑法学、犯罪心理学では常識である。

痴漢は最も冤罪の多い類型であると言われており(https://www.asahi.com/articles/ASL655CTCL65OIPE02N.html)これについては過去に上野千鶴子の東大祝辞に触れた際にも述べている(http://b.dlsite.net/RG11464/archives/52559828.html)。それは客観証拠の出づらさに起因しているものであって、痴漢に対する社会の問題意識だとか、性差別だとかは何も関係がない。
であるにも関わらず、上述のような冤罪にまつわる基礎的な知識もないまま、テレビバラエティの放言を鵜呑みにして「微物検査があるから男性は冤罪におびえる必要はありませんよ!」なんてデマを吹聴してしまう女性の無神経さを見ると、自分が痴漢に遭ったことがないから「痴漢くらいで騒ぐなよ、減るもんじゃなし」と言ってきた昭和気質の男性達がそのまま女性になったかのようだ。今では男性の痴漢被害だって珍しくなく、女性から男性への痴漢だってあると言われているのに。
先日だって就活面接の場において、こと20代に限っては男性が女性の倍近くセクハラの被害に遭っているという記事が出たばかりだ(https://www.huffingtonpost.jp/entry/jobhunting-sexual-harrasment_jp_5cede3ace4b0975ccf5d16bf)。性加害をするのは男性、被害に遭うのは女性、という先入観はもはや時代遅れだと言えよう。「#MeToo」が本当に必要なのは男性なのかもしれない。

こうした態度から「痴漢許すまじ」思想の向こうに見えてくるのは、痴漢をなくしたり、減らしたり、あるいは痴漢にまつわる冤罪などの問題を解決したいのではなく、ただ痴漢を疑われた男性を罰したいという他罰欲求だけである。
安全ピンにしろ、シャチハタにしろ、世の男性達が警戒しているのは、こうした思想的に偏った女性達の他罰的欲求の暴走であり、他者の人権に対する無関心さから来る建設的な議論姿勢のなさであろう。こうした議論を全て「痴漢を擁護するもの」として受け取ってしまう偏狭な態度それ自体が、結局のところ痴漢問題の解決に向けた建設的な議論を遠ざけて、単に犯罪の一類型に関する議論を「男女対立」の問題にすり替えてしまっている。

冤罪に関心がないということは、「犯罪が実際に起きていようが起きていまいが関係ない」という態度の現れであり、犯罪それ自体に関心がないとも言える。
実際、信じがたいような方法で痴漢なりセクハラなりしてくる人間というのは男女問わずいるもので、ただ安全に生きていきたいだけの無辜の人々が、そうした非常識な行為を犯罪行為として処罰したいという感情そのものは当然に尊重されるべきである。一方で、男性側の痴漢やセクハラの被害、女性による加害は全くといっていいほど無視され「女性専用車両」のような短絡的な手段で問題解決を図ろうとしてきた今日までの社会や、それに迎合し「痴漢冤罪なんてありえません!」と吹聴してきた女性達の方にも、痴漢問題についての無理解はあると思えるし、行為としての性質上どうしても伴う犯罪としての立証の困難さを「痴漢を容認する日本の男性の問題」であるかのように吹聴するような性差別意識の発露は、単に痴漢問題の理解や解決を遠ざけるばかりで何一つ利益がない。

あなたは痴漢を無くしたいのか?それとも痴漢の疑いのある男性にひどい罰を与えてやりたいだけなのか?
「痴漢問題」における建設的な議論の阻害要因となっているものが何なのか、改めて考えてみて欲しい。

売れない本、売れる本。

幻冬舎という出版社さんがいま話題になっている。


最初に前提知識として。
一口に本の部数といった時に、出版業界には「印刷部数」「実売部数」「公称部数」という三種類の部数がある。
「印刷部数」とはその名の通り本を刷った部数であり、「実売部数」は刷られた本が流通に乗り、書店に置かれてどれくらい実際に売れたかを意味する。「公称部数」とは、簡単に言ってしまえば宣伝文句としての大袈裟な数字で、これは実際の印刷部数よりさらに2,3倍くらい数字を盛ってることもザラである。客の購買欲を煽るために使われているが、たとえばその本に広告を出稿する際などに判断材料となるべき部数が不明瞭となることから、しばしば批判されることもある。同じ本の部数とはいっても、これらの数字は全く乖離した数字になるのが普通である。公称部数を除いても、印刷部数と実売部数はまず異なるのが普通であるし、その数字の差は流通在庫や書店在庫にある売れ残りの数なわけで、逆にこれがないと書店から本が無くなってしまう。我々がある程度商業流通の本を常に買うことができる状態にあるのは、こうした在庫を流通が抱えてくれているからだ。

で、ほとんどの作家は自分の著作の「実売部数」を知らない。著作者に入る印税は「印刷部数」に応じて支払われ、一度刷られたらその先の売り方については出版社に一任されるのが普通だ。
何故かというと、元々印税とは「この本は著者が出版社に正式に発行を許可したものですよ」ということを意味する「検印紙」というのを本一冊ごとに張り付けていたことが由来で、著作権使用料はその印紙ごとに著者に支払われていたからだ。すなわち印税とは本来、「本を刷った段階」で著者に支払われるもので、いくら売れたから支払われるというものではない。現在のようにPOSで書店ごとの売上がデータ管理されてなかった時代に、全国の書店で売れた実売部数が出版社側からは正確に把握できなかったことも、その理由にあるだろう。
現在もそうした出版業界の慣例に従い、印税は本を刷ったぶんだけ著者に入ることになっている。最近ではたまに実売部数で印税を払っている出版社もあるらしいが、これは「印税」の本来の定義や仕組みからは外れたイレギュラーなものである。自分の身近では聞いたことのない珍しいケースなので実態はわからないが、おそらく同人誌委託や電子書籍のように、何か月かスパンで全国の書店の売上を集計して、その都度印税という形で著者に支払っているのだろう。(それを「印税」と言っていいのかはともかくとして)

出版社の社長が作家の「実売部数」を晒して叩く行為が、上記の記事のような強い批判を受けることについては論を待たないだろう。いってしまえば実売部数は出版社しか知らない数字であり、企業秘密のようなものである。と同時に、そもそも出版社は著者に出版物の発行を「許可された」立場であり、その印刷部数についても出版社側が決定権を持ち、その売り方について責任を負っている立場である。著者から作品を預かって「売っていいですよ」と許可をもらって、「じゃあ〇〇部くらい刷りますね」と自分の責任でもって刷って売ったものについて、「あれね、これくらい刷ったけど実際はこんだけしか売れなかったんで、あいつ大した作家じゃないっすわ」とやるのは、背信行為であるとか以前に、あまりに己の職責に対して無責任すぎる。まあ出版の人間と一口にいっても当然いろんな人がいるわけで、中には変な人もいるし、こういうトラブルというのは色んな形で業界のあちこちに起きるものだ。

さて、そんな話題があがった中で、出版業界の在り方について様々な意見が交わされている。
特に自分が気になったのが
「なぜ出版社は売れない本を出すのか」という話と
「そもそももう出版社は不要なのではないか」という話である。

そして、この話は自分の中では一つの答えに繋がってくる。

とりあえずBLOGOSのこの記事を読んで欲しい。

まあ色々気になるところはある。特にまるで出版社が売上の9割持ってってるように書いてあるところが気になる(実際は出版社の取り分は3割程度で、残りは流通とか原価である)が、そのへんは置いておくとしても、似たような意見というのは実際ここ最近ネットでもよく見かけるようになった。
出版社不要論はこれ以前にも幾度も目にしてきている。それこそ同人のトップレベルでは、もう10年以上前から「これからは出版社や編集に頼らずに、既存のファンを抱え込んでいる作家が自分たちだけで作品を作って売っていける時代だ」なんて声も出てきていた。いささか極論ではあるが、力のある作家ならそういうこともできるし、既にやってる作家もいる。

今は販路も発表の場も多いので、従来のように編集に認められて雑誌に掲載されて、それが連載したりして本になって……という方法とは違ったやり方も沢山ある。漫画ならネットで読んでもらって、ある程度需要が見込めたら同人にしたり、あるいはダウンロード販売とか電子出版とかで世に出して、既に実績のある状態で出版社に持っていって単行本にしてもらう、なんて方法も珍しくない。あるいは同人からそのままグッズ商売やメディア展開に繋がるケースだってある。まさに出版社のやってることを作家個人がやってる状態だ。それもこれもSNSで個人が発信・宣伝ができるということと、スマホの普及で世間の人の主な情報ソースがそのSNSになった、ということが大きい。一昔前でいうならテレビに誰もが出られるみたいなことで、個人の発信力が企業のそれを凌駕できる時代になった。「もう出版社はいらない」という意見が出るのも不自然ではないし、そういう声があるのもわかる。

一方で元「ジャンプ」編集長の鳥嶋氏は、同人や電子メディアについては否定的な考え方を持っている人間だが、これはこれで極端な意見でもある。

-もうひとつ、大きな資本が入っていろいろな電子書店やマンガを読める場所が増えていますが、そこにある新しいマンガは、残念ながらレベルが低いということが問題ですね。なぜ低いかというと、作家が描きたいものを単に垂れ流しているだけの同人誌と一緒だからです。オールドメディアと言われる雑誌のほうがまだレベルが高いのは、編集のチェック、つまり読者の視点の品質チェックが入っているからです。乱暴に言えば、電子コミックのほとんどは、品質検査をしないクルマが市場に出ているようなものですね。
-じつはコミケに興味を持ちまして、堀井雄二さんと取材に行き、記事ページも作ったことがあります。コミケのパンフレットに「ジャンプ」というロゴも載せ、コミケのファンから大ブーイングを買ったんですが、そこで何名かスカウトし、事後に打ち合わせをしました。その結果、コミケにいる人たちはぜんぶダメだと解りました。なぜかというと、好き勝手に描くことはできるけど、直しができないんですね。ということはプロに向かないんですよ。直すというのは、一度描いたものを、読者の目線に近づけて繋げるということです。ということは、読者に繋げられない作家であり、それでは原稿料がもらえないということですね。

これに関して自分は懐疑的で、そもそも何故漫画を読者の目線に近づけて繋げる必要があるかというと、それは売るためである。
そして同人だって基本的にはみんな「売れてほしい」と考えている。(二次創作だと「不要な人の目にはついてほしくない」という考えの者も結構いるが)
鳥嶋氏は編集がチェックをすることで作品が精査されて商業レベルに耐えうるものになるとお考えなのだろうが(そして、それは一面的には事実ではあるが)、同人は目の前に買いに来る読者の需要により作品を近づけていくために自分で作品を精査する。いわば自分で編集を兼ねているのであって、試行回数さえ重ねれば編集と同等、あるいはそれ以上に、自分自身で読者視点の作品チェックが可能になっていく、と思う。単に編集という専門家との共同作業を通じて演繹的に読者目線に寄せていくか、売上という結果から逆算して読者のニーズを把握して寄せていくかの違いでしかない。
自分も同人あがりの作家ではあるが、商業の仕事では編集のOKが出ても、自分が納得いかなくて何度も直すことが多い。自分の作品に一番向き合ってるのは結局自分自身なので、自分でチェックできるならそれに越したことはないし、逆に編集のチェックが「読者視点」である保証もない。そもそも作品の売れる売れないを確実に編集が判断できるならそんなラクな話はないわけで、連載がはじまったもののパッとせずに打ち切られてしまった漫画など星の数ほどある。また逆に、実際世に出してみたらもしかしたら売れたかもしれない作品が、編集チェックや編集会議で潰されて世に出なくなってしまうことも多い。というか、商業は基本そういうことの方が多い。あまりに編集会議を通らないので(そして会議を通って連載が出来ないと商業作家は食っていけないので)、自分の作風を放棄して編集の好みに寄せていってしまう作家だって珍しくない。そういった商業ではすくい上げられない作品を、同人や電子コミックで世に出すことで、新しいニーズを開拓することもあるだろう。
これは方法論の違いでしかなく、一概にどちらが良いということではないように思うのだ。

では、出版社は実際不要なのかって言われると、自分は全くそのようにも思わない。

というのも、自分自身で一度、出版社抜きで単行本を出してみたからだ。

こちらの拙作「MC学園」は、単行本であるが同人誌である。自分で出した同人誌の原稿を自分でまとめて、自分で表紙のデザインから台割組みから宣伝から各所書店を巡って営業までやって、商業単行本とわざわざ価格や版型まで合わせた上で、Amazonなどの一般流通にも卸して、普通の商業単行本と同じように売ったオリジナル同人誌である。あまりに商業単行本と区別がつかないので、よく単行本を出したものと勘違いされたが、よく見ると裏表紙にISBNコードが入っていない。

実際やってみて、確かに入ってくる売上は大きかった。商業単行本の印税は一般的に10%。1000円の単行本なら一冊100円入ってくる。1万部売れたら100万円だ。それに対して同人誌の原価は部数にもよるが、仮に同じ1万部売れたら原価率はおおよそ30~40%。残りの60%が純利になる。1000円なら600円。1万部で600万円にもなる。(ここで同人誌の適正価格について語る必要も感じるが、それはまたいずれ別の機会に述べよう)
実際には商業と同人の販路の大きさは全然違うのと、先に述べたように商業は印刷部数ごとに印税が貰えるのに対して、同人誌は売れた数しか利益にならないという違いもあるので、上述のように商業でも同人でも出したら同じだけ売れるってことはまずありえないが、そうした違いを考慮しても商業単行本の倍くらいは利益が得られる、とは思う。

しかし、とにかく面倒くさかった。まずデザインからして面倒くさい。普通、作家が表紙のデザインなんかしない。自分は同人作家だから多少の経験はあったものの、それでもデザインの勉強をしたわけでもなければDTPの専門知識もないので、MdNとかが出してるデザイン書とにらめっこしながら、普段使いもしないAdobe Illustratorを使って見様見真似で必死にやった。(今も同人誌の表紙を作る時は同じ事をやってる)
台割を組むのも面倒くさい。同人作家でも総集編とかを作ったことのある人にはわかる。読者目線でページ構成を考えて、漫画の合間合間に入れる情報ページなんかもレイアウトしたりして、全ページ通してノンブルふりなおして、目次も作らないといけないし、その目次のデザインをまたやらないといけない。大変にめんどくさい。
営業も面倒くさい。同人なので、同人ショップくらいにしか置いてもらえないが、それでも版型が同じなので商業単行本と同じようにして置いてもらえないか掛け合ったり、書店ごとに特典をつけるという話をしたりして、部数の交渉なんかもした。とらのあなさんの事務所は昔秋葉原にあったのだが、今では船橋の奥地、駅から高速沿いを超えた徒歩30分くらいの場所に倉庫とともにあって、そこまで足を運んで同人部門の人とやり取りなんかもした。Amazonに置いてもらうために仲介の会社を探したりもした。(個人でやると手続きが大変に面倒なのだ)
で、その結果どうだったかっていうと、いざ書店を見てみると商業単行本と並んで置かれることはほとんどなく(そもそも同人誌なので、書店側の棚分けや商品管理の都合を考えたら当たり前なのだが)、自分的には画期的なことをやったつもりでも、部数も思ったほどには伸びなかったし、同人誌の適正価格帯や原価に合わせて若干値段を上げたら(それでもカバーつきカラー表紙の百数十ページの同人誌が1000円ちょいって考えると破格なのだが)、単行本の感覚で買ったAmazonのレビュワーに値段が高いと文句を言われてしまった。同じ商品も異なるマーケットに置かれるとそれぞれ扱いは変わる。実りはあったが、徒労感も大きかったというのが正直なところだ。

そういう面倒くささを出版社は一手に引き受けてくれる。デザインはお抱えのプロのデザイナーに依頼して作ってくれるし、そこに自分からお金を払う必要もない。台割も組んでくれるし、営業も勝手にやってくれる。こっちは原稿を渡して、表紙や特典の絵を描けばいいだけだ。何より刷った分だけ印税をくれるし、在庫がダブついても責任をとらなくていい。書店が在庫切れになったら増刷もしてくれる。何千部という本を個人の家で抱えられるわけもないが、商業流通ならその程度は余裕だ。結果、書店にいつ行っても本を買うことができる状態にしてくれる。後から話題になったりした時に再び手に取ってくれる人も出てくる。自分の「MC学園」は上記リンクを見てもわかる通りもう売ってない。在庫だって自分の手元に十数冊残ってる程度だ。所詮そのへんは個人の限界というものがある。
そういう面倒くささを自分で引き受けてでも、倍の利益が得られるなら……と思わないでもないだろうが、商業なら編集が面倒くさい雑務に追われている時間でこっちは他の仕事ができる。漫画の一本くらいは描ける。そうするとそれが次の利益に繋がる。何より漫画を描くことだけに集中できる環境というのはすごく楽だ。そもそも同じことだけを延々やることが最も効率が良いからこそ我々の社会は分業化を進めてきたのだ。ただでさえ話作り、カメラワーク、ページ構成、センス、画力、表現力など総合力が求められる漫画家が、そのうえDTPも市場調査も企画も営業もやって、取引先に足を運び毎日電話やメールなどの雑務に追われるなんて、効率が良いわけがない。そんなこんなで、自分は自力で単行本を出すのはこれ一回きりですっぱり辞めたのだった。

ネットやSNSの隆盛によって、今は個人の力が強い時代だと言われる。企業の宣伝力よりも超個人のパーソナリティが力を持ち、今では出版社やゲーム会社の方が個人のクリエイターの発信力をアテにして仕事を依頼してくることも珍しくない。情けない、出版社が役に立たない、と言いたい人の気持ちもわかる。
しかしながら、出版社の担ってきた役割というのは意外と大きいのだ。
先に述べたような出版に伴う雑務や在庫管理の業務だけではない。権利関係・法律関係の処理だってしてくれるし、メディア展開の窓口として様々な企業ともやり取りしてくれる。校閲だってしてくれるし、出版業界につきものの様々なトラブルから作家を守ってくれることも多い。

そしてなにより、誰もが上記のような方法で力を発揮できるわけでもない。既に名前が売れていて、本人もバリバリやる気と能力のある人ならば個人の力だけで売れることもできるだろう。しかし、誰もがDTPのスキルがあるわけでもなければ、企業と渡り合って営業をかけたり交渉したりできるわけでもない。自分でスケジュールを立ててその通りに行動できる作家ですら一握りで、外部から仕事を与えられ、〆切が設定されることでようやく手を動かせるという者も多い。
そして、別にそういった作家がダメなわけでもない。人生において何を優先するかなんて、それこそ人それぞれの自由だ。漫画は片手間程度で他に仕事を持っている者もいるし、趣味に打ち込むことをメインにしてる者もいる。一生懸命やってたって芽の出ない者も山ほどいる。売れる売れないだって時の運だ。たまたまうまくいってる一握りを例にあげて「出版社の果たすべき役割はもう終わった」などというのは早計な話だろう。大抵の作家は編集がせっつかなければ漫画を描かない。鳥山明先生だって編集にせっつかれなければ、少なくともサイヤ人編以降のドラゴンボールは描いてなかっただろう。それはそれで別にその作家の自由でもある。だが編集がいることによって大抵の漫画は世に出ているのだ。

「売れる本だけ出せばいい」という者がいる。売れない作家の本はいらない、売れる作家の本だけあればいい、という者がいる。しかし、世の中にある大抵の本は「売れない本」だ。スタージョンの法則によれば、あらゆるものの90%はクズである。しかしその90%があるからこそ、売れる本は売れる本たりえてもいる。
コミケの同人サークルだって90%は赤字だと言われている。しかしその90%のサークルの表現物にだって様々な価値があるわけで、黒字の10%の本だけが残ればいいわけでもない。もし黒字のサークルだけが本を出していいとなれば、表現の多様性を失ったコミケなんてすぐに廃れてしまうだろう。「売れること」を目的としていないからこそ価値のある表現だってある。
出版業界も同じだ。ピラミッドの裾野が広ければ広いほど頂点は高くなる。「売れない本」が沢山あるからこそ大ヒットの本は生まれるし、大きな利益もあがる。重要なのは売れる本そのものではなく、出版という業界自体の規模だ。
「売れない本」を出してもそれなりに食っていけるくらいの余裕があることこそが、出版業界にとって肝要なことではないかと思う。売れないとわかっていても、社会的に意義のある本だって沢山ある。そういう本の存在を受け容れる度量こそが多様性を生み、出版業界全体を豊かにする。多様なユーザが本を買いに足を運んでくれるようになる。かつてはそういう良好な循環が行われていた。コミック雑誌だって、人気連載が打ち切り寸前のつまらない漫画を一方的に支えているようで、実はつまらない漫画が一緒に載っていることこそが、人気連載を支えてもいるように思える。人気の作家だけ集めて雑誌を作っても不思議と上手くいかないものだという。トップレベルの選手だけを集めていけば必ずスポーツに勝つわけでもなければ、大人気ゲームを作れる会社が合併したからといってより素晴らしいゲームが出来るわけでもないのが世の中の面白いところだ。パレートの法則を逆説的に考えれば、全体の2割が大きな富を生むのは、富を生んでいない全体の8割を支える「遊び」があるからではないだろうか。

ネットの声はいつだって極端だ。巨乳の女性が出てくる漫画を差別だという者もいれば、喫煙者なんていなくなればいいという者もいる。それは極端な主張や、耳目を集めやすい表現ばかりが可視化されやすいネットそのものの特性だ。電子コミックも例にもれず、売れる漫画と売れない漫画の格差は激しくなる一方だ。自分の売り込み方がわかっている者は何をやっても注目され、平凡な者は埋もれていき誰の目にも触れなくなっていく。一見するとそれは現実的な淘汰のようにも見える。しかしながら、売れないコンテンツを提供している者にそれなりの利益やチャンスの与えられない業界は、すぐに裾野が狭くなっていき衰退していくような気もする。
紙の本は今どんどん売れなくなっている。一日に二軒ペースで書店が潰れ、売り場自体がなくなってきているのだから当然だろう。電子市場がその失ったマーケットを補填すると人は言う。しかしこれから先、電子出版のマーケットが本当の意味で業界を支えていけるかどうかは、「売れない」コンテンツとその作者達をどうやって生かしていけるかにかかっている気がするのだ。

男子の「ズリネタ」を排除する女子コンテンツのホモソーシャル

ジャンプ+に掲載された藤本先生の読み切り漫画「妹の姉」が話題になっている。

「児童ポルノだ」「セクハラ的」「男女逆ならありえない」などの毎度おなじみ定型化された文言でもって批判を受けているようだが、いずれも失当であろう。女性が性的に扱われることに過敏な一部の女性達が騒ぎ立てる、最早ネットではよく見る光景である。「これは現実だったら許されない」なんて意見もあったが、それなら毎回暴力によって問題解決を図るアンパンのアニメが児童向けとして受け入れられている現状は何なのだろう。フィクションはフィクションだろうに。

一定の女性は男性の「ズリネタ」的コンテンツを嫌悪する。自分達の消費するコンテンツに男性の「ズリネタ」的要素が含まれることを嫌うのはもちろん、中にはそもそも男性の「ズリネタ」ひいては男性の性欲それ自体を、まるで犯罪や悪そのものであるかのように捉え嫌悪する者もいる。その結果として、前述のような明らかにポルノ的意図を伴わない表現物に対してまでも、過敏に嫌悪の声を叫ぶのである。
実際は、男性の性欲がなければ人類という種の維持存続もありえないし、99.9%以上の男性は性犯罪なども犯さないので、男性の生得的性質である性欲を蔑視すること自体に根拠がなく、まるで生理を「穢れ」として蔑視してきた旧来の男女差別そっくりそのままであるし、女性が性欲を持たない聖人君子であるかのようにふるまうのもいささか選民思想的であろう。

そしてなにより、男性の嗜好しそうな女性像を潔癖なまでに排除しようとするこうした女性の差別意識こそが、女性向けコンテンツが抱えるジェンダーの問題の一つの原因にもなっているように思える。


少年ジャンプの「ゆらぎ荘」の漫画表現(https://togetter.com/li/1127039)や、ヤンマガの「なんでここに先生が!?」のパネル(https://togetter.com/li/1334427)がフェミニストによって炎上させられたことは、いまだ記憶に新しい。キズナアイに苦言を呈した学者が炎上した件(https://togetter.com/li/1275628)や、碧志摩メグ炎上(https://togetter.com/li/882336)の際には、架空のキャラクターのBMIまで持ち出したあげく「女性の身体を不自然に描写している」という批判もあったが、それを言い出すとあんスタやヒプマイのキャラ達のBMIなんてもっと大変なことになっている。身長180cm体重65kgの空手部主将は俺の正拳突きでも一発で倒せそうだし、195cm69kgの医者にいたっては自分の健康にこそ気をつかってほしい。
「女性の性的消費だ!」といういつもの論調に対して、おそ松さんの尻マウスパッドやキンプリの雄っぱいマウスパッドなどの事例を挙げ「女性向けコンテンツの男性消費はどうなんだ」という反論を試みた者もいたが、そもそも女性向けコンテンツは基本的にこのような筋の批判の槍玉にあがることは少ない。概して少女漫画における男性の扱われ方(イケメン・高身長・高収入)や、女性の扱われ方(ロマンチシズム的恋愛至上主義)はいかにもジェンダーロールの再生産的であるし、TL誌や乙女ゲーにおいてもそうした文脈を明確に引き継いでいる。BLにしたって「男性同性愛者を性の道具として消費しており、現実の同性愛者の実像とはかけ離れた、女性にとって都合よく歪められたアイコンである」との誹りは免れまい。

では何故、そうした少女誌や女性向けコンテンツを無視して、このように少年漫画や男子向けコンテンツばかりがジェンダー的な批判の槍玉にあがりやすいのか。

ここに一つの記事がある。
上記記事の「女性が定期的に読むコミック誌」の項目を見て欲しい。
グラフを見ると、驚くべきことに女性が最も頻繁に読んでいるのは「少年ジャンプ」である。男性66%に対して女性55%と、男女比のバランスも最もよい。少年漫画の他誌がそれに続き、男女比が最も偏っているチャンピオンですら、男性17%女性2%(約9倍)にとどまっている。ひるがえって少女コミックはといえば、最も読まれている別マですら女性は17%程度しか読んでおらず、少年ジャンプの1/3も女性に読まれていない。男性読者にいたっては1%にも満たず、男女比は実に18倍近い差がある。他の少女誌・女性向けコミック誌に至っては女性読者もさらに半分以下、男性は全くといっていいほど読んでいない。
少年誌やヤング誌がしばしば批判の槍玉にあがるのは、まさにジャンプを中心とする少年漫画こそが、男女ともに親しまれている「ジェンダーフリー」な雑誌だからであって、少女誌を中心とする女性向けコンテンツは、ことジェンダーの観点からいえば、言ってしまえば議論の遡上にあがるレベルにすら到達していないのである。(http://www.garbagenews.net/archives/1937808.html

ジャンプはご存知の通り、昔から魅力的な男性キャラ達を全面に押し出して積極的に女性人気を獲得しようとしてきた。「ヒロアカ」「テニプリ」「るろ剣」「銀魂」「ミスフル」「スラダン」「聖闘士星矢」……例を挙げればキリがない。そのような試みが「少女ジャンプ」などと揶揄されたこともあるが、基本的に男性向けコンテンツは女性消費者を排除しようとはしない。それは男子向けのコンテンツを作ってきた人々が、「ヤマト」や「ガンダム」など黎明期SFアニメが意欲的に女性人気を獲得してきたことによって売れたリアルな成功体験を見てきた結果だろう。中には「J9」のようにほぼ内実は女性人気で持っていたような男子向け作品もあった。不思議なことに、男性向け作品でありながら女性人気を獲得することが一つの人気のバロメーターでもあったのだ。そのようにして男子向けのコンテンツはこれまで、同性のみならず、異性の性癖や嗜好に寄り添って意欲的に消費層を広げようとしてきた。

だが前述のように、男性の「ズリネタ」的コンテンツ消費を嫌悪する消費層を一定数抱える、少女向け・女性向けコンテンツでは、そのような試みはほとんど成果を挙げなかった。昔は「CCさくら」「セイントテール」のようにロリコン受けで人気が出たものや、「東京ミュウミュウ」のように露骨に男性ウケを狙ったコンテンツもあったが、これは稀有な例である。今では「プリキュア」「アイカツ」などの女児向けアニメが辛うじてそのような消費層を獲得できているに留まっており、少女漫画誌ではほぼそのような試みは見られない。その結果が先の記事である。

これは男性編集者を積極的に採用して男性目線を取り入れればよい、という話ではない。現状、少年ジャンプの編集部には男しかいないが、それがこれだけの女性読者を獲得しており、読者層の男女比がほぼ半々くらいの最も「ジェンダーフリー」な漫画雑誌を作ることに成功している。仮に「ちゃお」「なかよし」の編集部に女性しかいなくとも、男性ウケする漫画誌は作れるはずである。実際、男性向けのヤンキー漫画で女性編集しかいない所だってある。女性社員しかいない男性向けエロゲー会社だってある。自身の生得的性別に基づいていなければ異性の心理心情に寄り添えない、というのは単なる性差別的な思い込みである。「プリキュア」なんかは明確に女児と成人男性をメインターゲットとしていて、それが売れ筋としてこれほど確立しているのだから、少女漫画は本来あれを範とすべきなのである。

先日、漫画家の楠本先生が「ジェンダーバイアスはなくなればよい」という趣旨の発言をしたインタビュー記事が炎上したが、彼女がそのような発言をしたくなるのもわかる。少女漫画という領域は、まさにジェンダーバイアスでガチガチに固められた領域であり、それゆえに当の女性たちの関心すら失い先細っている。出版不況が叫ばれて久しいが、少女漫画誌は中でもとりわけ部数を落としているジャンルで(http://www.garbagenews.net/archives/2183119.html)、「ジャンプ」が200万部を割ったことが騒がれている中で、少女誌としては唯一独走態勢の「ちゃお」ですら40万部に満たず、それ以外は軒並み10万部前後、マーガレットなどは5万部に満たない。そんな中で単行本の初版部数などは、最早ちょっと売れてる同人誌レベルである。少女漫画家としてそうした現状を見ている楠本先生だからこそ、危機意識からあのような発言も出たのだろう。

おそらくだが、少年誌で女性ウケを狙った路線をやるのに比べると、少女誌で男性ウケを狙った路線をやることは、圧倒的に本来の読者層である女性に嫌われてしまうという懸念があるのではないだろうか。本来、少年誌が少女漫画的イケメンキャラを推し出して積極的に女性たちの嗜好に訴えかけたように、少女誌も少年漫画のお色気キャラのような美少女を積極的に出して男性読者の性的嗜好に訴えかけ積極的に読者層を広げるべきだったところを、それができなかったのは、一定数の女子が抱えがちな「男性の性欲」そのものに対する嫌悪や蔑視の感情に根差したものであろう。
思えば、女性向けの領域はいつだってホモソーシャルである。男性コミュニティのホモソーシャル性を叩き「ハラミ会」を批判しながらも「女子会」は平然とやりたがる。「ヤれる女子大ランキング」を非難しながら「抱かれたい男ランキング」は公然と容認する。男性トイレに入ってきて用を足したり清掃したりする女性はいても、逆をやれば犯罪になる。医科大入試の女性差別に怒りながらも女子大の存在は頑なに守りたがるし、女性専用車両はあっても逆はない。「男女共同参画」や「ジェンダー学」にしてなお女性ばかりのホモソーシャルな議論がまかり通る偏った言論空間と成り下がっている。女性達は「自分達が守られる・快適に過ごせるエリア」を求めて「女性限定」の領域を作るが、それは当の女性達が「男性の性欲」に対して危機意識や蔑視感情を持っていることの裏返しである。
そして、それこそが「女性向けコンテンツ」の限界であるとも言える。「ライダーに女性が少ない」「戦隊に女性が一人しかいない」と見当違いな怒りを向ける一方で「プリキュア」は昨今ようやく一話だけゲストで男子が変身した程度にとどまっており、女児ヒロインアニメの主役は常に女子だけである。女子が「抱かれたい」と思うイケメンが少年漫画に溢れかえっても、男子が「ヤりたい」と思うエロい美少女は少女漫画には出てこない。「なくなればよい」ジェンダーバイアスの本丸は、少女漫画の中にこそあるのかもしれない。

実際には、犯罪や性暴力、セクハラ・DVにしたって本来有意な男女差などない。人間の脳に男女の差がないのだから当たり前である。児童性犯罪は男児が被害者になることの方が多いし、凶悪犯罪の被害者も多くは男性である。DV加害者の過半は女性であるとも言われているし、女性によるセクハラだって日常的に行われている。単にこれまで女性による性暴力が不可視化されてきただけであって、今後性犯罪者の男女比も変わっていくだろう。一定数の女性が持っている異性への「危機意識」は、生育過程において誰かに刷り込まれた「男はオオカミなのよ」的な旧態依然とした性差別意識に他ならない。それは「女の性には価値がある(男には無い)」「男には性欲がある(女には無い)」というバイアスそのものでもある。
そして、それは女性自身に対して持っている意識についても同じである。実際、女性全体としてはそこまで男性の「性欲」を嫌悪してはいない。ここまで「一定の」「一部の」と留保をつけてきたのは、決してこれが女性全体の傾向でないことを知っているからだ。ネットで吠えるフェミニストなんて、女性全体のごくごく一部の偏った思想の持ち主でしかない。あれを女性全体の捉え方とするのはそれこそ、痴漢だけを見て男性全体が痴漢であるかのように考えるのと同じことだ。
現在、男性向けエロ漫画の読者の3割程度は女性であると言われている。それは先程の記事でも、成人向けジャンルを好む読者の男性・女性比率がそれぞれ7.2%・2.4%となっていることからも見てとれる。一方で、女性向けのBL漫画の読者も3割程度は男性だとも言われている。逆に男性でエロ漫画やAVを嫌う者もいるし、女性でBLや少女漫画を嫌う者だっている。多くの人が考えるよりはるかに、男女には性嗜好の別などない。男性ウケするエロい女キャラを少女漫画に出したら女子の反感を買う、という懸念も、もしかしたら単なる思い込みなのかもしれない。一部の声の大きなユーザーの反発をはねのけることさえできれば、少女漫画だってもっとジェンダーフリーになれる可能性がある。それが少女漫画というジャンルにとって必ずしも必要なこととは限らないが、閉塞感のある昨今の出版情勢のブレイクスルーとなりうる可能性はあるような気がする。もしかしたら、楠本先生も直接的には言いづらかったから趣旨をぼかしただけで、本当はそういうようなことを言いたかったのかもしれない。

[新作]性欲に正直すぎるショタ勇者

性欲に正直すぎるショタ勇者
756円/ポイント10%
欲望のままに生きるセックス狂いの少年勇者にオナホ扱いされながらも、可愛いからついつい許しちゃうお姉さん冒険者たち。C95発行のオリジナル同人誌DL版。
18禁マンガ画像(JPEG)PDF同梱

上野千鶴子祝辞について考える

日本のフェミニストを代表する、上野千鶴子が東大入学式の祝辞に招かれ、そこで行ったスピーチが話題に上っている。

その内容は各種ネットニュースに取り上げられ、ツイッターでも多くの人の目に触れた(だからこそ自分も見たのだが)。いくら東大とはいえ、一大学の入学式における複数名によるスピーチ群の中の一人、それも一活動家にすぎない人物の演説内容としては、いささか異例の扱いだ。

この祝辞に対しては、ツイッターで「東大入学式」で検索して当日の様子を俯瞰するに、どうも現場にいた学生からは一様に反発の声があがっていたようだ。それはまさしく「炎上」と言ってもよい反応であった。
だが、その後祝辞の全文が公開されてからネット全体を俯瞰してみると、全く対照的に極めて賞賛の声が多い印象であった。いわゆるフェミニストではない人々からも、普段上野千鶴子に嫌悪感すら感じているという人々からも肯定意見が多く、大絶賛と言ってもいい。
中には、その場にいた学生で祝辞の内容に反発を覚えた学生を、無知、ミソジニーとレッテル貼りをして糾弾する者もいた。

しかしこの祝辞、そんなに褒められたものなのだろうか。
自分的には「こんなん読んで感動で涙するようなヤツは、エスポワールに乗せられて利根川の演説を聞いても涙するんだろうな」くらいの感想でしかないのだが、そういう反応をするヤツはみんな「ミソジニー」だの「フェミ憎しで目が曇ってる」だの散々に言われているのが現状だ。
本当にそうなのだろうか。自分なりに分析してみたい。


祝辞の前段は、概ね二種類に大別される。
「単なる事実を述べたもの」と「上野千鶴子の単なる思い込みを述べただけのもの」である。
以下にその二種類に色分けした祝辞前段を改めて掲載する。

chiduko








見ると、各段落の「結論」にあたる箇所は決まって上野千鶴子の「思い込み」によって成り立っているように見える。
ではそれぞれについて、何故そのように判断したか理由を並べよう。


最初の段落で語られているように、東京医科大の入試面接において「属性調整」と呼ばれる点数調整が行われたことは、既に報道されている通り事実である。(もっとも、減点の対象になったのは女子受験生だけでなく浪人生も含み、逆にコネで加点された者もいるそうなので、女性差別だけが目的で行われたものではないし、身体能力に劣る女性が外科医などの過酷な労働環境を避けるために、実際に医療現場において偏りが生じていることを危惧してあらかじめ女性合格者を減らすよう調整することが、私大入試において一概に女性差別であるとは断じがたいようには思うが、とりあえずここではその問題については留保する 参考:https://president.jp/articles/-/25266)
また、第二段落ではこうした差別が他の医大・医学部でも行われているであろうことを示唆しているが、実際にこれは多くの医大関係者・医学部受験者からも以前から暗に言われていたことであって、その真偽は依然不明ではあるが、特段彼女に限ってそのような主張をしているわけではない。統計的根拠からそのような差別が他の医大でも行われていることを推測するのも、特に無理のない推論ではある。
ただし、有り得べき推論であることと、事実であることとは違う。彼女の指摘は例えば東大なら理3の受験において不正が行われているという「告発」めいたものであり、これが事実だと思うなら調査をもって真偽を明らかにすべきだろうし、事実でなければ東大全体、ひいては日本の医大・医学部全体の名誉に対する毀損である。どのような意図でこの主張をしたのかそれこそ「なんらかの説明が要る」とは思う。

まして三段落目以降は、面接で属性調整を行っているとされる私立の医大・医学部受験の話ではなく、ペーパーテストのみで合否が決定される一般受験の話だ。ペーパーテストに性別を書く欄はないのだから、単に女子学生が少ないことをもって受験で性差別が行われていると考えるのは明らかに拙速である。だいたい、ついさっき第二段落で「男子優位の学部、学科は他に見当たらず」という文科省の担当者の言を引用したばかりなのだから、医学部以外でそのような差別が行われていないことを逆説的に示したようなものだ。本人もそのように考えたようで、先程まで不正入試の話をしていたはずなのに、この男女比を「息子は大学まで、娘は短大まででよいと考える親の性差別の結果です。」と親の意識の問題へと無理矢理スライドしている。
しかし、それでも「この差は成績の差ではありません」は論として成り立たない。公正なペーパーテストである以上、少なくとも受験した学生の間での成績の差が結果となって男女比として現れているのはまぎれもない事実であり、それと大学を受ける受けないという親の意識とは本来なんの関係もない話である。
第一、これは全く同数の男子学生と女子学生が大学への進学を希望していることを前提に語っている。あくまで自主的な選択として、短大あるいは高卒で社会に出るか主婦になることを希望して大学受験をしなかった女子学生が、男子学生のそれより数として多ければ必然的に男女比は男子に偏るが、それは性差別とは言わない(女子学生の意識が遅れている、という主張はできるだろうが)。上野千鶴子が女子学生の自由な選択権を認めておらず、全ての女子は大学に進学せねばならないと考えていれば話は別だが、そういうことではないだろう。
「事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています」と言いながら、「統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。」に至ってはもはや意味不明である。この祝辞に感銘を受けた諸兄は、もう一度落ち着いて本文を読み直してほしい。彼女が何を言ってるか本当に理解できてますか?

五段落目について、これは東大生の方々から一斉にツッコミが入った最も論旨の稚拙な箇所だ。「東大の男子は合コンでモテる」は、単に彼女にとって合コンでモテてる東大男子が目立って見えているか、彼女自身が東大男子に魅力を感じているだけで、女性が異性に求める条件は学力や学歴だけではないのだから、東大生だからといって必ずしもモテるわけでは当然ないだろう。なんの根拠もない、完全な上野千鶴子の思い込みである。そもそもその後に「東大の男子学生が社会からどんな目で見られているかがわかります」と言っている内容とも矛盾していて、一体東大生を持ち上げたいのか貶めたいのか皆目見当がつかない。
「東大生は、他大生と比べてもモテない」という悲しい当事者の報告も多数あった。わかる。俺も東大生や早大生より慶應ボーイの方がモテてる気がする。いや俺の話はいい。

「男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇する」も単なる思い込みであって、男子学生も「一応、東大」と控えめに言うのが普通であって、そこに性差はないという声も多かった。いったい何を根拠にこんなことを主張したのか。結局のところ、彼女自身の「男性は高学歴の女性を嫌うので、女性にとって学歴は重荷になる」という古臭い偏見を現役の学生に押し付けただけでしかない。だいたい70のお年寄りが今の若者の合コン事情など知ってると思う方がおかしい。正直俺にもわからん。いつまでも若者に理解のある年長者ヅラをしてると老害扱いされるぞ。

「かわいい」という言葉の定義もおかしい。普通に考えて「かわいい」は単なる容姿や言動に対する評価でしかなく、「愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています」という解釈は全く彼女独自の歪んだ解釈でしかない。
たとえば一昔前には暴力系ツンデレヒロインが流行ったが、あれなんか明らかに攻撃対象たる男子を身体的に脅かす存在でありながら「かわいい」とみんな言っていた。ネコだってちょっと機嫌を損ねると引っ掻いたり噛み付いたりしてくるし、主従関係を逆転させて飼い主に思い思いの奉仕を要求してくるが、それでもみんな「かわいい」と言う。女性が男性を「かわいい」と言ったからといって、その男性に暴力を振るわれたり性的身体が脅かされたりする可能性は常にあるだろうし、男女逆にしてもそれは同じだろう。「自分を脅かさない存在だから可愛い」なんてのは明らかに認知の歪んだ解釈である。この人は、そもそも「女性は男性の存在をおびやかし得ない」と思い込んでいるからこのような発言が出るのではないだろうか?だとしたら、それ自体が明確に性差別なのだが。

六段落目について、東大の男子学生の殆どにとってはまるで無関係かつ、極めて例外的な事例である男子学生の集団暴行事件を例に挙げて「東大の男子学生が社会からどんな目で見られているかがわかります。」は、明らかに過度な一般化である。東大女子が一人でも犯罪者になれば「東大の女子学生が社会からどんな目で見られ」ても仕方ないのか? 
この箇所から分かるのは、単に上野千鶴子あるいは当該著作の作家が「東大の男子学生をどんな偏見で見ているか」だけだ。最悪そんな偏見を持っていること自体は自由にしても、そんなことをわざわざ入学式の祝辞の中で告げる必要性は全くない。目の前にいる新入生の八割は男子なのだ。ハラスメントと言われても文句は言えない。
彼らが上野千鶴子の無神経な発言に怒りを感じるのは当たり前である。一部の例外を持ち出して、その行為の責任を属性全体に帰責させようとする試みは、まさしく差別の典型だ。男性全般を性犯罪者予備軍として差別するフェミニスト特有の悪癖がここにきて溢れ出してしまっている。

七段落目については、たしかにそのようなサークルがあるらしいが、逆に東大女子しか入れないサークルもあると聞くので、一概に女子だけが差別されているとは言い難いだろう。逆に東大女子と他大の男子だけが入れるサークルがあったとして、それは性差別か?また単に異性を排除するにしても、たとえば異性には聞かれたくないテーマについて討論するサークルなどもあるだろうし、単に一つのサークルが異性を排除しているという理由だけで差別のレッテルを貼られるというのは明らかに行き過ぎである。むしろ女子の方が、そのような理由でしばしば女子だけのコミュニティ形成をする傾向があるようにも思える。上野千鶴子は、女子会にも男を入れろというのだろうか。
大学のサークル活動とは何の権力性もない、規模も活動趣旨も様々な、自由な趣味の同好会であって、そこに男だけ、女だけのコミュニティを作ってはいけないというルールを作ることが必ずしも適切であるようには思えない。サークルとは、そこに入らないことで何らかの社会的デメリットを受ける、というような性質のものではないからだ。
そもそも東大の男女比が極端に偏っていることは既に述べていることであって、学生が普通にサークルを作っていけば、男子ばかりのサークルが乱立するであろうことは容易に想像がつくはずである。これに対して、男女共同参画の権力を傘に平等の理念に反するなどと警告を発するというのは、あまりに学生が可哀想だ。もっと沢山の女子に来てほしいのは当の男子達であろう。そのために積極的に他大の女子を受け入れるサークルを作っているのではないか。

八、九段落目ではこれまでの内容を総括しつつ「隠れた性差別」の存在を示唆しているが、実はここまで彼女は「東大にある性差別」の存在を一つたりとも客観的に提示できていない。最初の医科大の不正入試という「事実」が、巧妙に上野千鶴子の「妄想」に接続されているだけだ。東大の学生達からしたら、ここまで何の関係もない話を延々と聞かされている。事実多くの学生はこの時点で彼女の話に対する関心を失ったようで、SNSで当日の「東大入学式」タグのツイートを追うと、あきらかにツイートの投稿頻度がここにきて激増している。
そのあとに続く、東大の研究職、教授職の男女比率にしたって、そもそもそうした職を希望する母集団に男女の偏りがあれば差別とは言い難い。何をもってそこに性差別があるとしているのか全く不明である。もしもアファーマティブアクションによってゲタを履かせて、十分な能力のない者でも要職を譲れという主張ならまだ筋は通るが、それ自体も逆差別にあたると言われて久しいし、そのようにして女性を優遇して要職に就けること自体も、ひどく女性に対して侮辱的であるようにも思う。
あるいはそのような職に就くことに価値を見出せるよう女子を奮起させ、その意識を啓蒙しようとしたのならば、性差別という言葉自体がすでに文脈において適切でない。差別というのは通常、差別「されている」とされる側に問題を帰責する性質のものではないからだ。

いずれにせよ、前段は冒頭の医科大の不正入試以外のいずれの箇所においても、上野千鶴子自身の偏見や思い込みの産物である「性差別」を前提として、目の前にいる入学生の男子たちに「お前達は女子よりゲタを履かされて入学してきたんだぞ」と、古臭いジェンダー観からくるテンプレート的な誹謗中傷を向けているようにしか読み取れない。こんなもの年寄りのセクハラ以外の何者でもないではないか。
「そのような偏見は女性も普段向けられているものであって、それこそ男性に理解してほしい」などと擁護する者もいたが、女性に偏見が向けられていることを理由に男性への偏見や差別を不問にするならば、それこそ社会全体が性差別の解消などという問題にコミットする意味は雲散霧消する。「男性だって公然と差別されているのだから、女性も差別されても仕方ない」と言われておしまいだ。差別主義者が差別解消を訴えて誰が聞くと思うのか?


後段については、これは単なる一般論である。不正入試というセンセーショナルな議題を無理矢理接続した上で、女性学の内容についてアピールしつつ当たり障りのない一般論を展開している。
今回の祝辞を称賛する声の中にも「前半は賛同しかねるが後半を読んだらよかった」という声が散見されたが、そりゃ一般論なんだから当たり前である。この箇所を引用して「素晴らしい祝辞だ」「これが心に刺さらないようでは学生はダメだ」みたいな言説が拡散され続けているが、こんなこと東大生にもなったら普通に承知しているような内容でしかない。東大生の知性を低く見積もり過ぎだ。
この一般論はまあ良いことを言っていると承知した上でみんな前段の内容に反発しているのであって、この祝辞を賞賛し、批判の声を見下し矮小化している者達はあまりに視野が狭すぎるし、むしろ普段から弱者救済や差別解消の問題について考えてなさすぎる。

後段の内容をギュッと要約するとこういうことだ。

「皆さんは努力が報われた結果としてここにいますが、世の中には努力しても報われない不幸な人達がいます。だからご自分の努力の結果を自分のためだけに使うのではなく、弱者に手を差し伸べることを忘れずに。そして、どんな社会でも生きていける本当の知識をこの学校で学んで下さい。」

とこんな感じ。特に新鮮味がないといえば新鮮味のない、ノブリスオブリージュの概念を説明した一般論である。この部分だけ切り取ったら誰の発言かもわかるまい。というか、単に祝辞がしたければ最初からこれだけを言えばいいのである。
しかし、普段の上野千鶴子を知っていれば、ここの「弱者」の定義が、もっぱら彼女の政治思想に合致する形で都合よくチョイスされた属性集団のことを指していることがわかる。

断言するが、上野千鶴子の主張したかった内容は後段の一般論ではなく、前段の、多分に本人のバイアスのかかった「女性差別」論である。東大入学式の祝辞という祝いの場を、己の政治的アジテーションの場として私的に濫用しつつ、せっかく辛い受験を終えたばかりの若い異性に己の偏見からくる性差別的言説をぶつけて悦に浸りながら、そうと世間に悟られないための最低限の体裁を整えるべくとって付け加えられたものが後段の内容である。

それが穿った見方でない証拠に、よく読むと後段の内容と前段の内容の間で整合性が取れていない。

後段で「フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。」と言いながら、前段では「かわいい」とされる女子の価値を強引に否定し、短大に通う女子を性差別の結果と断じ、大学内で高い地位に就く女性が少ないことを嘆くという、極めて「男性的」な価値基準で女性差別問題を語っている。そこに将来の選択肢として専業主婦や、短大あるいは高卒で早期に将来の進路のために社会に出るといった選択肢はなく、ただ安易に一人でも多くの女性が良い大学、高い地位に就くことを称揚している。そのために、ギリギリ明言は避けたものの、大学入試のペーパーテストの内容にまで本来起こり得ない性差別が介在する可能性を示唆しているのだ。
「単に男性に比べてそのようなキャリアパスに魅力を感じる女性が少ないため母集団が偏った結果」とか、逆に「異性にかわいいとチヤホヤされたり、その結果として学歴や職もなく専業主夫になるといった、男性にはほとんど与えられていない選択肢が排除された結果として、男性が過当競争に身を置くしかなかった可能性」とかは、上野千鶴子の脳内には全く存在しないし、「専業主婦が専業主婦のまま社会的地位を向上させていく」という筋道も提示されていない。「弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」とは何なのか?
また当然に「稼得の責任や強者としての役割を押し付けられ、女性より圧倒的に貧困に陥りやすく、自殺や過労死、ホームレスになる割合が高く、犯罪の加害者にも被害者にもなりやすく、あるいは危険な労働を課せられ、あるいは性被害や性差別の問題を矮小化あるいは無視されやすい弱者としての男性像」も、彼女の頭の中には存在しないだろう。そんなものは「フェミニズム」の領域に存在しないからである。
この後段の主張は、文全体の中でもやや異質で、普段の上野千鶴子の主張内容とも全く整合性が取れていないので、単に思ってもいないことを建前として語ったために話のつじつまが合わなくなったのだとわかる。

またその後で、大学以降の社会を「正解のない問いに満ちた世界」と表現しながら、前段では既に述べた通りいくつもの偏見に基づいた「性差別に満ちた東大で、ゲタを履かされて入学してきた男子学生」という、ともすればそれ自体極めて侮辱的で性差別的な「回答」を学生達に押し付けており、逆説的に「自分の知っている範囲で考えた結論に安易に飛びつく愚かしさ」を自ら体現してしまっているのは皮肉というほかない。「自分の言っていることは正解ではないから信じるな」という意味ならわかるのだが。

ようするに、この祝辞はおよそ褒められたものでもなければ、むしろ差別的偏見に満ち溢れており、ましてや人生に一度の大事な入学式を、活動家の政治的プロパガンダに利用されてしまった東大生たちの憤懣たるや察するに余りある。こんなものに感動してるやつは単に「他人事」だから感動していられるのであって、東大生当事者ではないから、外野から好き放題言えるのではないだろうか。


もちろん、自分だってご多分にもれず他人事ではある。ではなぜ、ここまで長文を書き連ねるくらい、上野千鶴子の祝辞が自分にとって癪に触ったのか、その理由を考えてみた。
それはおそらく、強者として生きる自分を省みて弱者救済のために奉仕せよという、いわゆる格差是正のためにしばしばなされるノブリスオブリージュの理論を本旨に採りながら、なによりも上野千鶴子自身が格差拡大の原因の一端を担ってきたことに、本人が全く無自覚である点にある。

現在、世界中の富はごく一部の強者に独占されている。世界人口の半分近い富は、上位100人ほどの手によって占有されており、その殆どはアメリカの白人達である。日本でも「一億総中流」と言われた時代はとうに過ぎ去って、貧困と格差の中へと進もうとしている。
その一因と言われているのが、女性の上昇婚志向「ハイパーガミー」である。女性は男性がそうであったように、無職の家事手伝いの異性を一生をかけて養おうということは殆どなく、どんなに高学歴、高収入になったとしても、一般的には自分より社会的地位の高い異性を選好すると言われている。このハイパーガミーは従来男性優位社会の特性だと言われてきたが、どんなに女性の社会進出の進んだ国でもこの傾向は変わっていない。それは女性のジェンダーロールに「甲斐性」という強者の特性が結び付けられていないからだ。なによりこの傾向を上野千鶴子自身が過去に「エリート男しか会えせないのは、エリート女の泣き所」といって無批判に肯定している。
その結果として、先進諸国では女性の社会進出が進めば進むほど、パワーカップルとウィークカップルとの格差が拡大し、それが貧困化のサイクルや社会分断を生んでいる。格差是正をアファーマティブアクションというなら、従来型の、男性が稼得能力の低い女性に手を差し伸べ養うという形態は、これ以上ないアファーマティブアクションであったといえるはず。女性の社会進出を促進するならば、当然に女性にも「甲斐性」や「家長としての責任」を課して、無職や低所得の弱者男性を養う義務を負わせるよう、むしろ女性側の意識変革を促さねばならなかったところを、単に女性が社会に出て働くことだけを称揚した結果、どこの国でも同じような問題が噴出している。
だいたい、家事育児の労働にしたって立派な社会労働と言うべきで、むしろ批判すべきは、そうした労働の価値を低く見積もり、稼得能力のみをもって人間の能力を決めるような旧来のマチズモ資本主義であったはずなのに、女性にまでそのような偏った思想を無批判に植え付けて雇用労働の市場に追いやった結果、社会格差が深刻化して貧困の再生産に加担し、「フェミニズムはネオリベラルの婢女」と言われるようになったこの現状を、日本のフェミニストの第一人者としてどう考えているのか。
そもそもかつての欧米の専業主婦といえば、自分で自由に出来る財産を所有できず、旦那の性交渉を断ったり容姿が衰えたりすればそれ自体が離婚事由として裁判でも認められると言われるような弱者であったわけだが、それと現在なお全体の7割が家計を握っており、半数以上がセックスレスで、離婚時の財産分与でも親権裁判でも優遇され、極めて経済的に恵まれた環境の中で「亭主元気で留守がいい」と言っていた日本の専業主婦を同じもののようにして語ること自体がそもそも間違いである。日本の専業主婦の社会的地位は他の先進国に比べて元々圧倒的に高い。それは弱者たる女性を保護するべく様々な法的優遇を図ってきた結果であって、その構造を温存しながら「男女平等」を訴えたところで、未だに若い女子の将来の夢の多くは専業主婦になることであり、実際3割近くの女性は専業主婦になっている。その責任を日本の「男性優位社会」「男尊女卑」に求めるならば、日本社会は弱い女性を保護などしようとしてこなければよかったのか。
畢竟、アメリカの社会問題の解決のために生まれた「フェミニズム」という思想を、日本社会独自の背景も考慮せず、まるで木に竹を継ぐようにして日本にそのまま導入しようとしたことが間違いではないだろうか。その結果として貧富格差が拡大される一方、貧困問題そのものは「自己責任」のもとで置き去りにされ、女性専用車両のように男性を公的空間から排除する論理は容易く正当化され、そして上野千鶴子の教えを受けて育った女性たちは「男性をいくら差別しても構わない」とばかりに、毎日のようにSNSで差別的言説を振りかざしている。その責任について、彼女はなにも考えていないのだろうか。

経済格差の拡大が少子化のみならず、治安悪化の要因ともなっているのは既に知られている通りである。フェミニスト達は女性達の権利向上を図ったつもりで、むしろ女性達が安心して暮らせない社会を作ってきた。フェミニズム先進国と言われる国々はどこも一様に日本よりはるかに治安が悪く、性犯罪は増加の一途を辿る一方で自警主義(ヴィジランティズム)が台頭し、何の罪もない一般市民が私刑にあい殺されるような事件も常態化している。
女性達が社会の当事者意識を持たないまま、「守られる側」としての意識を持ったままで性犯罪について語ろうとすることは、人権概念に対する強烈なバックラッシュにもなり得る。「自分は被害を受ける側であり、加害者側に立つことはありえない」という考えを持つ女性が多いからこそ、昨今のように「性犯罪無罪判決」に対して苛烈な反対運動を起こす。
性犯罪それ自体、合意の上であればなんら違法性のない行為を、客観的に証明の難しい合意の有無によって裁くという性質上立証が難しいことはわかりきったことで、それにも関わらず本邦では99%以上の起訴された性犯罪が有罪になっている。当然に危惧されるべきは雑な司法判断によって冤罪が生み出されている可能性であって、実際に多くの冤罪が起きていることが幾度となく明らかになっている。その中で、一度性犯罪者の嫌疑をかけられた者には永続的に社会的制裁を課してもよいとか、裁判の結果として無罪になっていても、都合よく切り取られた報道内容などを鵜呑みに外野から勝手に有罪を推定して被告人の制裁を望むといった態度には、まるっきり「人権」の二文字はみられない。司法の適正手続や、推定無罪の意味、そもそも人が人を裁くという機能を国に集約した意味をなにも考えていない。新潟でも、性犯罪者にGPSをつけて監視せよと「ミーガン法」まがいの条例案が提起されたことがあったが、このような運動が結果として私刑の正当化、司法手続の形骸化を促し、法治主義そのものの存在意義を喪失させることに気がつかないのは、法教育の敗北以前に、彼女達が自らを「加害」の当事者にはなりえないと無邪気に考えているからであろう。
多くのフェミニストは、性犯罪の問題において男性達の「当事者意識」の欠如を批判しようとするが、実態は全く逆である。そもそも実際には、女性達が思っている以上に男性も性被害に遭っている。アメリカでは性犯罪者の2割は女性であると言われており、特に児童性虐待の分野において顕著で、男児の性虐待被害は女子の倍近いとする報告もある。また男子学生が女性教師に性虐待を受けるケースは、男女逆の場合より何倍も多いとすら言われ、実際にニュースになる事件も圧倒的に女性加害者が増えてきている。
そんなアメリカでも、刑事裁判において女性の犯罪が男性よりも軽く扱われやすいと言われているのだから、「性犯罪者の99%以上が男性」と言われる日本で、どれほど女性による性加害が見過ごされ、容認されているか想像に難くない。実際、刑法が改正されメイルレイプが違法化されたのは、本邦ではつい一昨年のことである。はるか古代から強姦の対象として推定されてきた女性とは、重ねてきた歴史が違いすぎる。今でも女性の60%が痴漢に遭った経験があると言われる一方で、男子学生も全体の15%は痴漢に遭っているとも言われている。そもそも「男脳・女脳」が疑似科学として否定され、男も女も同じ人間で性差などないという前提に立っているのだから、男女関係なしに一定割合で性犯罪傾向はあると考えるほうが平等原則に照らして正当である。雑な男女論で社会を切り分け「女性が被害に遭っているのだから、男性を排除することは差別ではない」と吹聴する日本の女性達こそ、こうした社会の変化に対していささか鈍感なのではないだろうか。
勿論、全ての男性が女性と同等に性被害に遭っているとまでは言わないが、男性の性被害、性暴力の告発のし辛さは女性の比ではないだろう。フェミニストは概して女性が性被害に遭いやすいことを男性が軽視している、女性が日々受けている危険に無知、無関心であると主張するが、逆に女性だって、電車である日突然異性に腕を掴まれて「この人痴漢です!」と騒ぎ立てられて、何の非もないのに家族や仕事を失う可能性や、数年前に性行為をした相手が突然「私はあの人にレイプされました!」と吹聴し、社会的信用を一方的に毀損されたり、場合によっては犯してもいない罪で投獄される恐怖とは全く無縁な世界で「安全に」生きていて、そのことに無知あるいは無関心である自分について想像力が欠けているのではないだろうか。隣の芝は、どこだって青いのである。
性犯罪は男女関係なしに被害に遭う可能性があるが、「性冤罪」はほぼ男性だけが遭う性被害である。アメリカでは性被害の告発の実に過半数が虚偽だという軍の調査もあり、日本の弁護士達も法律事務所に相談に来る性被害の8割以上は虚偽であると実態を踏まえて語っている。「統計は大事」だなとど言いながら、フェミニストは常に不都合な「統計」を無視しようとする。性冤罪の類型は殆ど一定のパターンに従っており、大抵が「ある男性と性行為を行ったことが、露見しては不都合な男性(家族や恋人)に露見した際に、あれは無理矢理だった、と虚偽の自己弁護を図ること」によって起きており、自分もその被害に遭ったことがある。それも一度ではない。そうした虚偽の内容を真に受けた女性の伴侶や恋人によって、無辜の男性が暴力を振るわれ殺害までされたりする事件も実際に多発している。性冤罪が悪質なのは、そのように実際に犯罪に加担し、あるいは罪もない男性の人権を奪う行為でありつつ、ありもしない性犯罪をでっちあげることで、本物の性被害にも疑惑の目を向けさせるセカンドレイプの直接原因にもなっていることだ。ともすれば、これは通常の性犯罪よりも悪質であると考えられてもいいくらいなのに、依然として本邦では全くこの問題について省みられていない。性冤罪の問題を軽視するということは、すなわち性犯罪が「実際に起こっていようがいまいが関係なく処罰すべき」と考えているということであって、それ自体性犯罪そのものを軽視した考え方である。
痴漢にしたって「最も冤罪の多い犯罪類型である」と多くの法曹関係者が言っているにも関わらず、そんなものは存在しないかのように無視する発言をする女性がSNS上には大変多い。しかし、法治国家において冤罪の可能性に無関心なまま人権について語ること自体、人権概念をよく理解していない証拠であると言ってもいい。
表現の自由に関しても、男性向のポルノやアニメに対して無理筋な批判を向けようとしながら、一方で自分達の表現に対してはなんら批判の対象にならないかのように思い上がり、たまに批判を受けると「ミソジニー」と雑に認定した上で議論を封殺する。民主主義社会において表現の自由が優越的地位にあることは、法学部の学生までいかなくとも、中学公民レベルで習うことだ。思想表現の自由の認められない社会での民主主義は畢竟独裁体制の正当化にしかならない。「猥褻表現の検閲」とは、元々体制側が国民を都合よく管理するために、反体制を取り締まるための方便であった。フェミニストはこうした基本的人権をとりまく歴史すら共有していない。
その一方で、先に述べたようにフェミニストは「稼得の責任や、強者としての役割を押し付けられるために、女性よりも社会的弱者に陥りやすく、自殺や過労死、ホームレスになる割合が高く、また法的社会的不平等によって、犯罪の加害者にも被害者にもなりやすく、あるいは危険な労働を課せられ、あるいは性被害や性差別の問題を矮小化あるいは無視されやすい弱者としての男性像」にはどこまでも無関心で、「男性のプライドの問題」として矮小化しようとする。それならば、女性差別の問題だって「女性のプライドの問題」に矮小化できてしまいそうなものだ。
そして先日は、児童を虐待死させた母親に対して「父親の責任もある」と減刑を求める署名が行われ、多数の署名が集まっていた。一部の日本女性達は、自らの子供を安全に育てることに対してすらしばしば責任を放棄する。逆に父親が児童を虐待死させたとしたら、伴侶たる母親の責任を問うべきだと思っているのだろうか?こういう女性は「男性の家事育児参画率が低い」と文句を言いながら、その原因であるはずの男性の労働負荷の高さや、日本の長時間労働についてはほとんど無関心だ。日本男性の平均労働時間は女性の二倍、過労死率にいたっては十倍もの開きがある。肉体的に過酷な業種においても殆ど男性が従事しており、四季報によると、たとえば鳶職などの女性率は全体の0.8%程度だと言われており、他にも男性率の高い職業の多くは、肉体的に過酷な、命の危険を伴うような職業が占めている。このような傾向は日本だけに限らず、先進国のいたるところで起きている問題だ。にも関わらず男女の賃金格差がゆるやかに解消されてきているということは、男性は女性に比べてその高い労働負荷や長い労働時間に対して十分な賃金を得ていないということであり、これはむしろ男性差別の問題とも言える。
このような女性達は、もちろんSNSという狭いコミュニティの中で発信された偏った集団に過ぎない。しかし彼女たちはまぎれもなく自分達が「批判される側」「告発される側」にいないという信仰ゆえの「安全圏」から無責任に石を投げている。自分が「加害者」の立場に立たされた時のことを考えたことなどないし、一度そのような立場に立たされそうになれば簡単にその責任を回避しようとする。それを「無責任」以外の何だと言えよう。
そもそも、フェミニズムにとって「弱者救済」ほど相性の悪いテーマはないのではないだろうか?弱者というのは本来、犯罪傾向が高いものだ。日本における在日、アメリカにおける黒人、欧州におけるムスリム。いずれも日本人や白人より何倍も犯罪率が高い。性犯罪についても同様である。そもそも法律や裁判というものは強者にとって有利に作られ運用されがちな一方で、弱者は真っ当な教育を受けづらく、経済的に困窮しやすい環境だからこそ犯罪に追い立てられる。その中には、生まれつきハンディキャップを背負った者達も当然に含まれる。日本の刑法犯の平均IQは70程度だとも言われている。そのような犯罪傾向の高い集団を、たとえ自分がその犯罪の被害者となろうとも「自分がもし相手の立場に生まれたら、自分も犯罪者になっていたかもしれない」という想像力を働かせる、ジョジョ1部のジョージ・ジョースター1世のような精神こそが肝要であり、十分な教育を受ける機会を損なっているがゆえにモラルが低く、困窮しているがゆえに犯罪傾向が高く、ともすれば自分に危害を加えてくるかもしれない集団に手を差し伸べるという、本来人間的な本能からは逆行する行為を行わねばならないのが弱者救済であって、それが困難だからこそ、ノブリスオブリージュや弱者救済の精神が一般論としてはこれほど社会に共有されてはいながらも、それがなかなか実践に結びつかずに格差が拡大するのである。「性犯罪者、許すまじ」なんてのは、単なる遵法意識であって、弱者救済でもなんでもない。自分達を「犯罪の被害に遭いやすい、可哀そうな女性達」と定義して、そのような女性を弱者として救済してくれと主張することは、単なるミーイズムであって、弱者救済の精神とは根本的に相容れないし、ましてや男性の犯罪率の高さを理由にして「女性専用」の空間や「男性差別」を正当化することは、まったく在特会のような集団が主張してきた「在日特権を許さない」「我々は被害者である」と変わらない。
何が「弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」か。フェミニズムを取り巻くこのような現状について、本邦にフェミニズムを取り入れた上野千鶴子は一体どのように考えているのか?「私はこのようにして女性学の第一人者になれたのだ」とドヤ顔で自らの功績をひけらかすのであれば、当然にその結果について自らの責任を考えるべきだ。だが今回の彼女の祝辞はただ、男性全体の日々負わされている苦難や差別をまったく無視して、自らの過去の功績をことさら誇示するために、目の前の男子学生たちの努力の結果を否定し、いわれのない罪の意識を押し付けながら、男女の分断を促進しただけに過ぎない。

長くなってしまったが、では当該祝辞を学生達はどのように受け取ればいいのか?
正解は、さっさと忘れることである。そもそも大学の入学式で聞いた祝辞なんてみんなすぐに忘れている。時代錯誤な老害の説教が若者に与える影響力なんぞ推して知るべしである。そんなものはさっさと聞き流し、自分達のこれからの時代を前向きに生きたらいいのだ。今回の祝辞に「感激した」「素晴らしい」と喝采を上げている大人達だって、きっと数日経てばすっかり忘れている。短い人生、そんなものにいちいち一喜一憂するべきではない。目の前のやるべきことを淡々とやるだけだ。
それに、上野千鶴子の祝辞を聞いてもし学生達が上記のような社会問題に向き合い「こんな偏狭なオバさんが大きな顔をして差別について語ってるような世の中を何とかしなければならない」と問題意識を抱いたのならば僥倖で、これを切っ掛けに本邦で軽視されがちな男性学の分野が発展し注目を集めることになれば、それこそが性差別問題を前進させる原動力にもなりうる。男性学はそれこそ上野の言を借りれば「ベンチャー」である。もしかしたら、今から本格的に研究していけば将来は一つの学問の権威として認められるかもしれない。これからを生きる若者達にこそ是非チャンレジしてみて欲しい。「男性が差別されている証拠」なんて、先に述べたようにそれこそ無数に溢れている。唯一のハードルは、男性の被害や苦境に対する社会的関心の低さだけだ。

もしも上野千鶴子の祝辞を聞いて、あるいは自分のこの記事を読んで、性差別の問題に本当の意味で関心を持ち、いずれ男性差別解消のための運動をはじめるならば、自分も何らかの形で積極的に支援していきたいと思う。どこかのオバサンみたいに、年甲斐もなく若者の事情について知った風なことを言い、偏屈な説教などすることなく、ただ金だけ出すとかして、ね。


-------------------------------------------
追記。

https://note.mu/hirotakai/n/n7e4d16fb2257
https://anond.hatelabo.jp/20190413114026
上記の他、日を追うごとにSNSでも上野祝辞についての批判意見が多くなってきたように見える。
やはり当初の反応は、権威主義者達の脊髄反射的反応に過ぎなかったのか。

あと思い出したが、ほんの3年前には「東大入試は女子が有利になるよう調整を行っている」と各所で話題になっていたことがあり、他にも東大以外の大学や、公務員試験などでも女性優遇が行われているという噂が巻き起こった。じゃああれはなんだったんだ。
https://matome.naver.jp/odai/2148076378662143001


いうか、あれこれ難しいこと考えなくても、
「今の大学入試は女性が優遇されていて、合格したのは皆さんの努力の結果ではない」とか「ヤれる女子大ランキングを見れば、この大学の女子がどういう目で見られているかわかる」とかに置き換えて、同じことを男女逆にして男性教授とかが大学でスピーチしたらどういう反応があるか想像してみれば、その内容が事実かどうか関係なしに場に適切な発言であったかどうかわかりそうなものだが。
記事検索
  • RSS
  • Dlsite blog