「学級会」から卒業しよう。

「進撃」のサシャのコスプレをしたグラビアアイドルがSNSで叩かれてるみたいです。

大抵こういうの、はちまとかから民度の低い連中が集まってきて炎上するんですよね。自分も経験あります。というか、今回ちょうどうちの売り子も晒されて、一部そういう連中が寄ってきてました。

炎上のお約束ですけど、こういうの叩いてる側は、ほんとにいろんな理屈をつけてくるんです。
「原作愛がない」「原作と違う」「売名」「ブサイク」「キャラのイメージが壊れる」「二次元と三次元は別」etc……。
でもそれ、コミケで一般的に売られている本や、一般的なコスプレにも言えちゃいませんか。

「子供だって来るようなとこで……」とか「常識的に考えて……」とか、みなさん色々な理由おっしゃいます。
理屈と膏薬は何にでもつくとはよく言ったもので。本人はそれが正しいって思ってるんでしょうけど。
断言しますが、オタクの世界で「常識」だの「モラル」だの持ち込んで学級会はじめるヤツってのは、全員イキリオタクですよ。

だってそんなこと言ったら「常識的に考えてコミケに子供なんか連れてきていいわけない」し、そもそも「常識で考えたら無許可のエロパロ、ホモパロ同人誌なんか売っていいわけない」とか「本を売る場であるコミケでコスプレなんてやるのは場違い」とか「子供の目のつくところでホモセックスしてるような漫画を売るのは非常識」とか、言い始めたらコミケなんか全部吹っ飛んじゃいますよ。
でも、子供連れじゃないと来れない人達もいて、一方で好きな漫画描いて売りたい人達と、それを買いたい人達がいて、コスプレがしたい人達とそれを撮りたい人達がいて、色んな人がコミケという混沌とした世界の中で絶妙なバランスで両立してるわけですよね。
そのために、人目につく範囲ではせめて乳首や性行為の絵は隠すとか、コスプレでも局部や乳首が見えないようにしっかりガードするとか、盗撮はダメだとか、徹夜はダメだとか、本の中身の修正は商業誌に準じてとか、運営の設定した最低限のルールがあるわけですよね。そういう何がOKかダメかを判断する権限は、普通に考えたら運営にしかないわけで、何の権限もない一般オタクがあれがOKだ、これはダメだ、やいのやいの言うのは全く無意味です。運営に直接それを言うのは自由でしょうけど、それだって最終的に判断するのは運営側ですし、ましてやそれをすっ飛ばして本人を直接攻撃する行為には何の正当性もないですよね。

オタクの世界って、常識とかモラルとかから排斥されてきた世界ですよね。そういうマイノリティの世界で、自分がマジョリティみたいな面して自分ルール振りかざすのはもう立派なイキリですよ。「自分はオタクだけど普通の人の感覚がわかってる」って勘違いしてるんです。「リアルではモンクタイプ」の亜種です。
たとえばコミケをテレビとかで特集した時に、キャラの服装をちょっとエロくアレンジしたコスしたりする姿と、ホモパロやらエロパロやら売ったり買ったりしてる姿と、どっちが普通に映せるかって考えたら、おそらく前者ですよ。後者には大抵モザイクがかかる。一般人からしたら「セクシーな格好した女の人を見に来たり撮影したりする」のはグラビアアイドルとかの延長線上で理解できるけど、「アニメや漫画のキャラを勝手に男同士で絡ませたりエロいことさせたりするような絵や漫画を、長い時間や労力かけて描いたり売ったり、それ買うために炎天下に長時間並んだりする」のは全く理解不能ですよ。ともすれば法令に引っかかりやすいのも後者の方でしょう。

そういう一般人からしたら理解不能な世界にいるのに、「自分は一般人の感覚がわかってる」「常識が守れている」と思ってるほうがズレてますよ。エロコスしたりエロ同人描いたりしてるよりも、むしろそれを批判してる側のほうが、全然自分が客観視できてないんです。そういう「一般人の感覚」がもうわかんなくなっちゃってるからこそ、エロ同人ホモ同人読みながらエロコスとかに目くじら立てるようになるんですよ。あるいはそういう人は「自分は特別」だと思ってるんです。でもこういう世界で「あいつは異常」「普通じゃない」言い出したら、それ全部自分にかえってきますよ。「あのキャラはそういうことしないのに、あの女はキャラの性格とか人生を無視してヘンなコスプレしてるんです、許せないでしょう!?」ってアニメも漫画もロクに見ない一般人に向かって口角泡を飛ばす自分の姿を想像してみて下さいよ。

逆にそういうのの延長線上で、一般人がハロウィンの時とかにコスプレして電車乗ったりしてるのを「家からコスプレしてくるのはルール違反」とか言い出して一般人を攻撃しはじめちゃうんですね。コミケや同人の内輪ルールを一般的な社会のルールと混同してる。でも「自分の信じてるルールや常識が当たり前」みたいになっちゃうと、オタクってすごく分が悪いと思いますよ。

「コミケ運営の規約に反してなければ何やったっていいわけじゃない」って言う人いますけど、違いますよ。法令や運営のルールに反していなければ、基本的には何やったっていいんです。だからコミケカタログにはあんなに長々とコミケのルールが事細かに書いてあるわけですよ。ダメならスタッフが止めてます。今年だともう73万人とかが集まるようなイベントですから、当然にいろんな人が来ることが想定されているわけで、それこそ脅迫だったり爆発物を持ち込んだりするようなヤツと戦って「自由な場」を守ってきたのがコミケなわけです。
そこに自分の主観だか社会の常識だかわからないような曖昧なルールを持ち込むんだったら、それこそ「常識的に考えて」「いい年してアニメなんか見てるヤツはキモチ悪い」ですよ。

今年から有料化に伴って「お客様感覚」の参加者は増えていくんじゃないかと言われてます。
「お金出してるんだから、誰が来ても問題ないような快適な空間を作る責任が運営にはある」みたいなトンチンカンなことを言い出す人もいると思います。そういう考えが「私がルール」を呼び込むんでしょう。
けどオタクやってくんなら、せめて自分が「普通」の側に立てるなどという驕りは捨てましょう。
自分も含め、いろんな人がいるっていうのを受け容れないと、自分も受け容れられなくなりますよ。

表現の不自由展について

愛知県内で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展」の展示内容が、反日プロパガンダであるとしてネットを中心に批判炎上、わずか3日で中止に追い込まれる事態となった。

「表現の不自由展」中止に 少女像作品めぐり抗議が殺到
各種メディアでは「少女像」の問題に矮小化されているが、自分の観測範囲だとむしろ昭和天皇の写真を焼く映像作品に対する批判が多かったように見えた。
-大元帥服をまとった戦前の昭和天皇と推定される、焼け焦げた写真を描いた「焼かれるべき絵」や、昭和天皇の写真をバーナーで焼くシーンを含むドラマ風の映像も流されていた。
-大浦氏の作品「遠近を抱えて」を鑑賞する人々。映像には「侮辱的だ」などとする批判が相次ぎ、抗議のうち4割は昭和天皇をモチーフにした作品に対するものだったという。

また一部には、2017年に香港の展覧会で展示された「安倍首相と菅官房長官の口の中をハイヒールで踏む」作品が、本展覧会に展示されたものだという誤った情報も流れており、これが批判に拍車をかけた。
このことは芸術監督を務める津田氏本人がデマを否定するツイートをしていたらしいのだが、そもそも津田氏自身、Twitter上で異論・反論を述べるアカウントを片っ端からブロックすることで有名な人物であり(「らしい」と書いたのは自分も一切絡んだ事がないのに何故かブロックされているためである)、このことが皮肉にも、当の批判者たちの間で津田氏自身のツイートが共有されず、誤情報が修正されずに拡散され続ける原因にもなった。

さらにこの件を受けて、表現の不自由展の実行委員会が「戦後最大の検閲」と称したことについても「明らかな誇張だ」と批判が起きている。
元々今回の「表現の不自由展」で展示された「表現の不自由をめぐる年表」に記載されていた内容にも偏りがあると言われており、(https://togetter.com/li/1383581)、それにともなってこうした発言が出てきたことで「検閲の歴史について不勉強」「彼らにとって興味のない表現規制・検閲の歴史が無視されている」と批判する者も多かった。

では、そもそも今回起きたことは「検閲」なのか?

憲法第21条第2項は、言論の事前検閲を禁じている。
ここにおける「検閲」の定義とは
「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査したうえ、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指す」とされている。(最大判S59.12.12 札幌税関検査事件)

今回、表現の不自由展が中止になった背景として、二つの理由が挙げられている。

①抗議や脅迫などの電話に対応する職員の疲弊、セキュリティー上の問題
展示中止を決めたうちの一人、キュレーターの津田氏はこのことを主な理由として強調しており、逆に行政からの圧力に対してはほとんど述べていない。

②行政の判断
殺到した抗議の内容を受けて、実行委員会の会長代行を務めた名古屋市市長の河村氏が「日本国民の心を踏みにじる行為で、行政の立場を超えた展示が行われている」として即刻中止を求めた。https://www.asahi.com/articles/ASM824TN5M82OIPE013.html
この点については一方で、会長を務めた大村知事は「検閲ととられても仕方ない」と主張しており、実行委員会の中でも意見が割れているのが現状である。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190805/k10012022411000.html

①について、過激な表現が時に抗議や脅迫を呼び込むのは残念ながらごく普通のことである。京都アニメーションの不幸な事件においても、以前より脅迫状は届いていたと言われていたし、また近年では2013年に「黒子のバスケ事件」が起こり、ジャンプフェスタやコミケにおける「黒子のバスケ」関連の出展が中止となる事態にもなった。
一方で、そうした脅迫をいちいち取り合っていては表現の場が守れないという問題もある。自分みたいな個人の作家でも何度か脅迫状めいたものは送られてきたことがあるし、大規模な展示会ともなればそれこそ玉石混交なクレームや批判の中に脅迫めいたものが混じることも珍しくない。先日の京都アニメーションの事件を受けて敏感になったのであろうし、実際に会長の大村知事もそのように発言している(https://www.huffingtonpost.jp/entry/oomura-conference_jp_5d454be5e4b0aca3411e2fe0)が、こうした脅迫行為に安易に屈して表現を取り下げてしまうとなると、それこそ脅迫やテロといった手段に成功体験を与えてしまうことにもなる。警察の対応能力にも当然に限界はあるわけだが、少なくともこうした脅迫行為を受けて自主的に表現を取りやめることを(たとえ安全保障上の問題を警察から指導されたとしても)「検閲」とは言わないだろう。

一方で②についても、これを「検閲」とするのはいささか強引であるとする意見も多い。
そもそも「あいちトリエンナーレ2019」の主催は行政庁であり、当の県知事が会長を務める実行委員会である。行政自身の責任でもって行われた展示会で、「この展示内容が行政の名前で行われることが相応しいか、そうでないか」を判断する権限は当然に行政にあり、内容が相応しくないと判断されれば取りやめになることもあるだろう。河村市長が「日本国民の心を踏みにじる行為」という政治的な名目で中止を求めたこと自体は確かに拙いが、そもそも当の展示物である少女像の作品それ自体もまた国際的な問題を抱える政治的な表現物であり、このような作品が行政の名前で展示されること自体が、行政機関の政治的中立性を疑われたり、行政の政治的立場を誤った形で斟酌されることにも繋がりかねないという危惧もまた、当然に起きうるものである。

また当の表現物それ自体、別に表現の場を奪われたわけでもない。「あいちトリエンナーレ」の内容に相応しくないと判断されただけであって、行政が責任を負わなくていい場でやればいいのである。
つい先日も、コンビニからエロ本を排除するにあたって「なくせとはいってない、コンビニで売らなければいいだけ」(実際コンビニのエロ本はコンビニ向けに作られている本なので、コンビニで売るなというのは事実上の廃刊要求なのだが)と言う世論によって正当化され、ついに今月からコンビニからエロ本が一切なくなってしまったばかりだ。(ちなみにこの排除を「売れなかったから」と市場原理によって正当化するデマも流れたが、コンビニエロ本は他の書籍に比べ売り上げが高く、普通に扱われている他の商品でもっとはるかに売り上げが低いものは無数にあるので、事実ではない)今や紙のエロ本は全国に限られた同人ショップとごく少数の書店でしか扱われることが許されておらず、その中身も我が国固有のモザイク表現でガチガチに法規制されているわけだが、こうしたことが公然とまかり通っているということは、ここまでしてなお憲法で禁じられた「検閲」とは公に認められないということである。
それに比べて、単に行政主催のイベントが主催者の判断で中止になったというだけで「検閲だ」というのはあまりに大袈裟だ。それこそ「他所でやればいい」と言われてしまうだろう。この点について、過去に実際に表現検閲を受けたろくでなし子氏も「誰も逮捕されてないし、作品やら何やら片っ端から警察に押収されてもいないのに、なーにが「戦後最大の検閲」よ」と痛烈に批判している。https://twitter.com/6d745/status/1158013991479697410
もちろん本展示の場に向けて準備を進めてきた挙句に、わずか数日で作品群を撤去しなければならなくなった表現者達の心痛は察するに余りあるが、ああも「検閲」という語を雑に用いられてしまうと、表現規制の最前線にいる立場としては、どこにも発表の場がなくなって逮捕者くらい出てから検閲だなんだと言って欲しいとは思ってしまう。実際、コアマガジン裁判や松文館裁判など、性表現規制の現場では過去に幾度も逮捕者が出ている。それに比べると、行政主催の企画展から作品が取り下げられた程度で「戦後最大の検閲だ」などと吹聴してしまうのは、あまりに表現者としてピュアすぎる。

例えば、漫画雑誌の連載作品について世論から批判を受けて、出版社が掲載に不適格であったと判断して漫画の連載を取りやめたり、単行本の発行を中止するといった行為は(表現を生業にする者としての矜持はどうなんだという話は別として)、少なくとも「検閲」とは言わない。表現を取り下げる主体はあくまで当該表現に責任を負う出版社自身であって、出版社には自らの名前で持って発表される作品の内容をコントロールする権利があるからだ。「美味しんぼ」が福島に対する風評被害を広めた件で連載を中止にされた際も、あれを「検閲」だという者はいなかったはずだ。
行政にもまた、行政の名において行われる催しの中では、当然に行政が責任を負う範囲内でもって表現をコントロールする権利がある。これは行政が民間の表現物の発行等を禁じたり罰したりする「検閲」とは本質的に異なる。逆に今回の展示内容が「従軍慰安婦の嘘とでっちあげ展」だったとしても、やはり行政の名前でもってそのような展示を行うことは政治的に見ても好ましくないとして排除されることは十分にありうるだろうし、そうした排除を一概に「検閲」にあたるとするのは、少なくとも本来の語義からすれば誤用だと言わざるをえない。
一方で、官民問わずそのようなクレーマー行為によって表現の場を奪われる表現者の人権や心情にも当然慮られるべき所はあり、近年の表現規制に関する問題は政府・行政の主導する「検閲」よりも、こうした民生主導の形での規制へとシフトしてきている。歴史を紐解けば、戦前の敵性語狩りも民間の風潮によって作られた社会運動であり、また過去の悪書追放運動も殆どは婦人団体などの主導によって行われたものだった。真に「表現の不自由」を語るならば、そうした切り口で表現していただきたかった。

今回の件で、「プロパガンダ」「検閲」という語が雑に用いられ、不用意な対立構造を生むことは、かえって今日の表現規制に関する問題点を見えなくしてしまうのではないだろうか。
本件については、まだ事実関係の錯綜している部分もある。特に本企画の中止に至った経緯と、その中止を求めた主体が本当は何処であったか、という点について、上述した内容を踏まえても一概に判断しづらいところがある。
今回はひとまず備忘録的な意味で、ここまでの内容を記しておきたい。

表現の自由について、改めて考える。

2019年の参院選が終わった。

今回特に話題になったのは、当初公言してきた目標となる得票数53万票を達成した山田太郎氏の躍進であろう。花粉症対策や児童虐待の問題などのイシューも掲げてはいたが、やはり彼の得票のほとんどは主に「表現の自由」イシューについての支持だろう。とりわけアニメ・漫画・二次創作などの表現の自由を守ることに熱心に取り組んできた姿勢から、今回の当選にあたって「オタク票を取り込んだ」と称したメディアもあった。
さて、自分も同氏に投票したわけだが、自分は別にオタクとして表現の自由の問題にコミットしてるわけではない。自分はどちからといえば立憲民主主義的立場からの表現の自由に強い関心があり、オタク、あるいはエロ漫画家として考えるとむしろ自分の主張はかなり少数派、あるいはほぼ賛同者がいない部類になる。

立憲民主主義的立場からの表現の自由とは何か。
それは正確に言うなれば、憲法上優越的人権として定義される国民の思想・表現の自由を、個人の人権を侵害すると判断するに足る十分なエビデンスに裏打ちされた「明白かつ現在の危険」の証明なしに、誰かの道徳的なさじ加減を国民全体に押し付ける形で制約されることは、民主主義国家として許されてはならない。というものである。
シンプルに言うと「権力による道徳の強制の否定」だ。

表現規制論者たちは、手を替え品を替え様々な主張をする。「子供の目の届く所に女性の裸を出すな」「女性の下着姿は児童の健全育成に有害である」「性行為を描写することは不道徳な性交を助長する」「暴力的な表現は犯罪行為を正当化する」……だから、「規制せよ」となる。
しかし、実は表現規制派の意見が統一されたことは過去に一度もない。「性器が見えなければOK」「下着もダメ」「水着ならOK」「男の乳首はOK」「ヘアがダメ」「無毛がダメ」「胸があるのがダメ」「胸がないのがダメ」「ボディラインが露骨なのがダメ」「女性を蔑視するような表現(定義不明)はダメ」「血が出るようなのはダメ」「実行できるのはダメ」「人を殴るシーンはOK」「交通ルールを守らないのはダメ」「犯罪行為を描くのはダメ」「ミステリの殺人シーンはOK」「銃で人を殺すのはOK」など、人によって考え方がてんでバラバラで、互いに矛盾しまくりだからだ。
規制の主体にしても、「法律を作って国が規制すべき」「出版社が自主規制せよ」「ゾーニングすればOK」……そのゾーニングの方法にしたって「棚を分けるべき」「専門店に置くべき」「表紙にわかりやすい表記をするべき」「表紙でわからないようにすべき」などなど、一人として同じ意見はない。

それは当たり前のことで、これらは全て根拠のない道徳規制だからだ。暴力表現や性表現が、児童や社会、男性や女性に与える悪影響についての客観的なエビデンスなど、一度として提示されたことはない(むしろ暴力ゲームで犯罪が減ったとか、ポルノで性犯罪が減ったとか、そういう統計の方が多い)。エビデンスの伴わない主観的道徳論は、宗教である。個人として、あるいは家族共同体の中でそのようなモラルを持ち、守ろうとすることは何も問題がない。だが、それを他人に、社会全体に同じように押し付けることは、端的に言ってモラハラであり人権侵害である。
我々は生まれながらにして自由であり、どのような思想を持ち、どのような表現をし、どのような表現物を享受しようとも、それは己の責任において自由である。これが民主主義社会における基本原則であり、人権の基本概念であったはずである。それを制約するには、相応の明白で客観的な根拠がいる。「なんとなく、子供のために、社会のために良くない気がするから」で人権を制約することは本来許されないのだ。

ところが、この視点から考えた時、民主主義の精神が徹底して守られている国というのは、実はまだ人類の歴史において誕生したことがない。
「子供に有害だと思う」「犯罪を助長すると思う」「社会に悪影響だと思う」……この「思う」によって、民主主義の根幹たる表現の自由は、必ずどこの国でも大なり小なり制約されている。憲法上特別に重要とみなされている人権が、みんなの「なんとなく、そう思うから」によっていとも容易く制限されてしまっている現状の中で、人々が声高に人権を語ることの矛盾に、なぜか多くの人は無関心である。
そんな中で日本は、世界でも最も表現が自由な国の一つである。日本で作られた表現物は、往々にして海外に持ち出すことができない。海外では違法な表現も、日本では合法であることが多い(例外として、無修正ポルノは日本でのみ違法で、海外のほとんどの国では合法であったりもするが)。いまだ警察の人質司法が常態化し、報道は記者クラブと大資本によって統制され、中世とまで揶揄されることもある日本においてすら、民主主義の根幹たる表現の自由が、世界トップクラスで守られているんだという現状を鑑みると、いかに民主主義というものがひどく理想主義的で、また実現困難な社会制度であるか考えさせられてしまう。

さて多くのオタク諸氏は、別にここまで踏み込んで表現の自由を主張していない。端的に大衆の共感が得られないからだ。
「明白なエビデンスなしに表現の道徳規制をするな」を徹底すると、たとえば子供にも親の裁量で自由にポルノを与えよ、AVもテレビで堂々と流せ、そこに害があるというなら科学的に証明せよ、という主張にも繋がる。そこまで踏み込んで言うとほとんど誰にも共感が得られないので、ほとんどのオタクは処世術的に、なんとなく「レーティング」とか「ゾーニング」といったジャーゴンを駆使して、万人に理解されうる範囲での主張に落ち着けている。
しかしながら、俺はそこまで物分かりの良い人間ではないので、原理原則として本来許されないものをなんとなくで許してしまうのは、結果として権力による思想表現の制約、検閲を肯定する立場となんら異なる所がないんじゃないか、みたいに考えてしまうので、そういった向きにはどうにも賛同しかねる。よって自分の「立憲民主主義的立場からの表現の自由」主義は、あくまで法と人権に関する原理原則に従った結果として、市民感情と真っ向から対立する極めて少数派の立場になってしまう。
何故、自分の主張内容がオタクとして、エロ漫画家としてのものではないと断言できるかというと、そもそもエロ漫画とはカリギュラ効果的な側面によって売れているものだと自分は考えているからだ。もちろんその表現技法の巧みさや内容の新奇性が価値を持っていることは前提としてだが、エロ漫画が「秘しているものを覗き見たいという欲望」によってもまた価値を見出されている側面があることは否定しがたい。仮にエロ表現に対して何の社会的偏見も無いような状態であれば、エロ漫画はあくまで「セックスを題材とした一般漫画の一ジャンル」に過ぎず、特別にカテゴリ分けされることもなければ、他のスポーツ漫画やグルメ漫画のように、よりキャラクターの魅力やストーリー性、表現技法の巧みさによって他者との差別化を求められる過当競争の世界になるであろうことは想像に難くない。性表現への偏見はある意味で、エロ漫画というカテゴリを特別なものとして守ってきた側面もあるのだが、自分はエロ漫画家であるがゆえに表現の自由を守りたいと考えているのではないので、仮に偏見をなくし人権を守った結果として自分の作品がより売れなくなってしまったとしても、それは仕方のないことだと思っている。

ただ正直、もう自分は自分の主張内容が生きているうちに社会に受け入れられることはないと思っているし、将来何世紀か経った頃に社会のスタンダードになることもないような気がしてる。今日我々の社会は、一見すると自由と人権の価値をピュアに盲信しているが、その実「万人に十全な人権が認められ差別や抑圧もなく自由である状態」というのは、ほとんどの人にとって大変ハイリスクに感じられるものである。先入観や因習によって支配されてない社会というのは、すなわち社会全体で共有する価値観が皆無だということであって、そうなると一つ一つの判断にいちいち自分で考えなければならないし、危険因子の事前排除もできなくなる。先入観で物事を捉えることは危険だと言われるが、まったく先入観なしに物事を捉えることも、それはそれで多くの人にとっては危険なのだ。

歴史は常に前に進むわけではない。地球の円周が計算できた文明が、ゾウの上に大地が乗っている文明に姿を変えてしまうこともある。小姓と愛を育み、女が往来で裸になるのが当たり前の国が、同性愛とヌードを厳しく取り締まるようになることもある。
古代ローマの末期なども性の乱れが著しかったという。姦通、不貞、乱交、露出、それらを禁忌とするのもまた根拠なき道徳規範である。そして道徳規範が失われればバックラッシュが起こる。その結果として性に厳格なキリスト教が台頭した。いま、リベラリズムやフェミニズムが新たな道徳規範として台頭し、それに対するバックラッシュが世界規模で起きている。これからさらなる新しい道徳規範が台頭し、やがて中世キリスト教黎明期のように世界中の道徳を支配するのかもしれない。
しかしながら、ひとたびそのような流れを受け入れるとなれば、国家や権力が国民を道徳でもって統制することを許容することになり、すなわち人権概念と民主主義の完全なる死である。全ての国は中国か、あるいは北朝鮮、ないし最悪イスラム国のようになるしかない。だがもし、そのような悪しき歴史の循環が繰り返されないとしたら。将来的に宗教道徳と法治主義とを完全に切り分けることが出来たとしたら。そんな希望でもって自分は表現の自由を主張してる。

自分が望んでいるのは、単に紙とペン、RGBあるいはCMYKで描かれているだけの情報の集合体を、誰もが、何の制限もなく、気軽に作れて、気軽に観れるようになる、ただそれだけの簡単なことなのだが、随分と大きな話になってしまったようだ。
みんなもよかったら今一度、ラジカルな観点から表現の自由と道徳の関係について、自分なりに考えを巡らせてみてほしい。


余談だが、表現が制約されることと、表現が批判を受けることは、しばしば混同されがちだが本質的に異なる。
ネットが人と人との距離を限りなくゼロにした今日、これからの我々にとって大事なのは、批判を受けたからといって安易に表現を取り下げない勇気と、他人の批判や叩き行為に安易に乗っからない自制心なのかもしれない。

Pray for Kyoani.

大変に痛ましい事件が起きてしまった。

事件のあらましについて今更ここで語ることもないだろう。そもそもまだ被害者も加害者も何一つ詳細が公開されてはいない。ただ、日本のオタク史上最悪の悲劇であり、戦後最大級の被害者数を生んだ惨劇が起きた昨日、7月18日という日は永遠に歴史に刻まれるだろうとだけは言える。

京都アニメーションの歴史は古く、元請としては「フルメタルパニック」、実質的な制作としては「赤い光弾ジリオン」まで遡るが、広く人口に名が膾炙されるようになったのは「涼宮ハルヒの憂鬱」からであろう。自分もこの作品ではじめてこの会社の名を知った。
今のアニメの作画水準に慣れてしまうとピンとこないが、このアニメは当時のアニメの平均的な作画水準を大きく上回っており、日本のアニメ全体の表現技法の底上げに大きく貢献した。あの時の熱狂を多感な時期にリアルタイムで見ていた自分としては、京都アニメーションの名前が将来的に日本のアニメ史に名を遺すことになるだろうと確信させた。だがそれが、まさかこんな形で歴史に名を刻むことになるとは考えもしなかった。

自分は先日ちょうど防火管理者講習を受けたばかりで、講習の中で44人の死者を出した2001年の歌舞伎町ビル火災についても取り上げられていた。あれは結局放火かどうか不明だそうだが、今回の事件に伴ってしばしば名前を引き合いに出されているのを見た。しかし今回の事件は、一般的な火災とは大きく状況が異なる。2日間の講習で学んだ防火管理のための努力は、ガソリン爆発に対しては全くの無力だと知った。

SNSで事件の詳細が流れてくればくるほど、事態は全く不可避であったことがわかってくる。一般的にどこでも手に入る凶器。ガソリン爆発の威力におよそ備えようもない一般的な社屋。偶然に警備の網を抜け社内に潜り込んだ全く無関係の第三者。瞬間的に人の命を奪う炎と黒煙。これほどの凄惨な事件でありながら、これはいつどこで誰にでも起き得る事件であり、およそ逃れる術などないという事実に、多くの人が衝撃を受けたに違いない。

だが考えてみれば、たしかに事件の規模としては未曾有のものであるが、あくまで個々人のスケールで見れば「突然にやってくる理不尽な死」などというものは、我々の日常の傍にいつだって転がっている。事故、天災、病、殺人、そして戦争。文明というベールで守られて普段は見えていないだけで、逃れ得ない不意の死というのは誰にでも起こり得るものだ。それらは全て悲劇であり、必然でもある。

だから、じゃあどう生きるべきかと考えると、それはもう今自分がやるべきだと思ったことを、ただ一生懸命やるしかないのだ。最終的に何の意味もないとしても、何か意味があると信じたことを貫くしかない。誰もがそうだし、生きるってのはそういうことだ。今回失われた命、その一人一人も、きっとそうやって生きてきた。多くの資産もまた失われてしまったかもしれないが、一時代を生み出したエネルギーは、多くの人々に与えた影響は失われはしない。

寄付だ、クラウドファンディングだ、通販で買い支えようと、今回の悲劇に対して少しでも支援できればと思い声を上げている人達がいる。それも大事かもしれない。だが一番大事なのは、アニメを作るということに人生の時間を費やして一生懸命向き合ってきた人達が、生み出してきた作品から感じとったもの、得たもの学んだものを財産として、今自分ができること、やるべきことを一日一日真剣にやっていくことであるように思う。

仮に自分が命を落とした時に、世間や周りの人がどうしたら、一番自分にとって望ましいか考えたことがある。あくまで自分の場合だが、やはり自分が作ってきた作品について一人でも多くの人に語って欲しい。クリエイターはモノを作ることで、わかりやすく生きた証が遺せる。その点はいい仕事なのかもしれない。自分の命を費やしてモノを作っているのだから、命が途絶えたあとは作ってきたモノについて語って欲しいと、自分なら思うだろう。言うほど大したものを作ってきたわけではないのだけれど。

わざわざSNS上で言うべきことも特に浮かばなかったので、独り言のようにここに書いておく。最後に、今回の痛ましい事件の犠牲となった方々のご冥福をお祈りします。

創作者の責任

「遊戯王」の高橋先生のインスタ投稿が物議を呼んでいる。

既に高橋先生はこの投稿についての謝罪をしているが、それに対する世間の反応は思った以上に多様だ。
「芸能人や漫画家が政治を語ることを避ける日本人の気質」とか「反安倍、反自民の表現だったからネトウヨに批判された」みたいな方向性の様々な言説を見かけたが、いずれも自分から見たら見当はずれのように思える。単に作者本人の発言としてであれば、ここまでの批判を受けることはなかったように思えるからだ。
これは「キャラクターの一貫性」に対する、創作者の責任の問題ではないだろうか。

創作者が、自分で生み出したキャラを「活かす」ためには、そのキャラクターの人格に対する首尾一貫性に細心の注意を払う必要がある。そのキャラクターがどういう時代背景に生きて、どういう性格や目的を持っており、どういうコンプレックスがあり、どういう外見をしているか。画面上で表現され、読者が読み取ったもの以上に、創作者の中でそれらの情報はきちんと整合性を持って維持されていなければならない。

「ジョジョ」の荒木飛呂彦先生は、キャラクターを作る際に「身上調査書」を作るという話を、たびたびされたことがある。
年齢、性別、生年月日、出身地、身長体重、視力から利き腕、手術経験や人種、宗教、前科、夢、恋人に至るまで、ちょっと度を越しているとまで思われる細部にまで至る詳細な設定を書いた上で、漫画のキャラクターを描いているという。ここまでやっている作家は少ないにしても、大なり小なりキャラクターを考える上で設定を詰める作業というのは誰もがやることだ。それは何より創作者の中で、そのキャラクターを「活きた」キャラクターにするための必要な過程であって、作者の中で活きてないキャラが、読者に活きたキャラとして受け取ってもらえるわけもないのだ。

一方で、あえて公式がキャラの一貫性を崩して、創作者がキャラに異なる設定を与えて遊ぶこともある。セーラームーンが主婦になっていたり、エヴァンゲリオンが日常モノになっていたり。しかしそれだって、ifの世界と前置きしてやることで行われる遊びの範疇であり、基本的に同一世界・同一設定におけるキャラクターの描かれ方というものは繊細な一貫性が求められ、それを失したものは「キャラブレ」が起きているとしてタブー視される。新人漫画家の作品がしばしば「キャラがストーリーの都合で動いている」と編集に言われたりするのもそれだ。

キャラクターが、創作者によってその首尾一貫性を求められないのであれば、それはただの絵でしかない。ただの絵であれば、単に絵が上手いだけの人間はいくらでもいるのだから、およそアマチュアの描いた人物のデフォルメ絵にそこまでの価値など生まれようもない。キャラクターが「ただの絵」の枠組みを超えて大きな価値を生み、多くの人々の心に残るのは、そのキャラクターの内実、精神のありようというものを、創作者が脳内で必死にシミュレーションした結果として、さも生きた人間であるかのようにふるまうからだろう。その絶妙なバランス感覚を保ち続けることこそがキャラクター創作の本質であり、ただの紙とインクの集合体でしかないものに、魂を与えるためのテクニックなのだ。

二次創作の中でキャラをいくら改変しようが死なせようが、原作のキャラには何の影響もないが、一次創作者が同じことをやれば簡単にキャラは死ぬ。
コボコラをいくら作ろうが原作の「コボちゃん」に影響はないが、かりに植田先生がそれを面白がって本家「コボちゃん」で同じように大量のコボちゃんを出したりおじいちゃんを死なせてゲラゲラ笑ってしまうようなことがあれば、本家の「コボちゃん」はその瞬間に単なるサイコパス漫画になってしまい、作品やキャラクターの価値は失われてしまう。
あらゆる二次創作表現について同じことが言える。腐女子がいくらキャラクターを男同士で絡ませようが、エロ同人作家がいくらキャラクターを淫乱にしようが、本家のキャラクターの一貫性には基本的に影響を与えない。それは公式の描写ではないという周知の事実があるからだ。そんな二次創作ですら、たとえばキャラの一人称を間違えるようなことで強い批判を受けることもあるし、表現内容によっては「キャラのイメージを壊す」として批判をする者もいる。まして本家の一次創作者・権利者であればなおのことだ。日清のワンピースキャラのアオハルCMですらあんなに批判されたのだ。古いミームで言うなら「飛影はそんなこと言わない」のであり、今の言い方で言うなら「解釈違い」なのである。

「二次創作やコラ画像で、キャラに政治的なことを言わせている表現はいくらでもあるじゃないか」という意見も見かけたが、それは全く逆で「二次創作では許されても、一次創作者だからこそやってはいけない表現」というものが世の中にはある。そういう意味では、理不尽かもしれないが、捉え方によっては二次創作者の方が一次創作者(原作者)よりも自由なのである。言い方を変えれば、そのキャラクターに何の権利も持たないからこそ、何の責任も発生しない、とも言える。
「作者が自分で作ったキャラクターなのだから、作者に全ての権利があって、どのようにしようと自由なはずだ」と思うかもしれないが、逆に「作者が自分で作ったキャラクターなのだからこそ、作者に全ての責任があり、そのキャラクターの扱いには細心の注意を払わねばならない」とも言える。ある日突然ベジータが卑屈になって悟空に敬語を使いはじめたり、碇ゲンドウが子煩悩になったり、西住みほがヤンキー口調になったり、そういうことは仮に二次創作では許されても、本家の作者が何の考えも意図も無しにやったりしてはダメなのである。そこに至るまでの一貫性が担保されていないからだ。

「遊戯王」の世界は、現代のようで現代ではない世界である。カードゲームのルールこそが絶対で、その勝敗が全てを決定づけ、場合によっては人を死に至らしめることもある。カードに描かれたモンスターはまるで生物のように実体化して戦い、主人公の別人格を司る「千年パズル」をめぐって架空の超古代文明の神秘に接することもある。あの世界におけるリアリティレベルはまさに少年漫画的な水準において架空であり、およそ現代の日本が舞台である保証すらなく、現実の社会秩序や政治闘争とは無縁の世界であることがわかる。

その世界に生きるキャラクター、しかも作中のカードゲームから実体化した「現実世界とは乖離しているはずの」キャラクターに、「日本」とか「政権」とか言わせること自体が興ざめなのである。仮にこれが自民党賛美の発言であっても同じだし、政治的な発言でなくとも一緒だろう。ファンにとってそれらのキャラクターはそもそもそういうキャラではないし、作者にとっても本来そういうキャラクターではなかったはずなのである。
「美味しんぼ」のキャラクターが、しばしば登場人物の立場や性格を無視して作者の政治主張の代弁者でしかなくなってしまっていることを批判されることがあるが、せっかく長い時間と労力をかけて命を吹き込んだキャラクターの中身をからっぽにして、作者の腹話術人形にしてしまうことは、酷く勿体無い行為であるとともに、そのキャラクターのファンであればあるほど、作者がキャラクターを無碍に扱っているように見えて反感を買うものである。

もちろん、当の内容が政治に関するものであったことが余計に事態を悪化させた側面もあるだろう。政治と宗教の話題はタブーだと昔から言われるように、こと政治の話をすることは、必ず何らかの対立や分断を生ずるものである。
アメリカなんかだと「芸能人が政治の話をするのは当たり前で、政治の話もできない方が一人前の大人として扱われない」みたいに言われがちだが、そのアメリカで誰もトランプ大統領の誕生を予期できなかったことを考えると、あれだって「自分達と同じ(リベラルな)政治主張の人間だけが自由に発言が出来ただけ」で「それ以外の政治主張を持つ人間を黙らせてきた」だけでしかないように見える。それでは「平家にあらずんば人に非ず」と大差ない。そこに分断があったからこそ今の政治的混乱があるのであって、やはり政治の話題を引き合いに出して「私と私の支持するこの考え方こそが正しい(ゆえに対立者は間違っている)」という主張をすることは、当然に誰かを傷つけ切り捨てているのだろう。この点においては公に政治の話を避ける日本の方が、むしろ文化的に成熟した態度のようにも思える。

しかし何より、やはり今回の問題は、創作におけるキャラクターの扱い方の難しさという側面が大きいように自分には思える。自分が生んだキャラクターだからこそ、自由にはできない。現実には存在しないキャラクターに説得力を持たせ、読者の中で活きたキャラクターにするための、バランス感覚の難しさである。二次創作と一次創作の最大の違いは、その作品世界についての責任を一手に引き受ける覚悟の部分かもしれないと、最近特にそう思う。
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