たいしたこと書いてないんで読まなくていいです。たまにCG集の宣伝が入ります。

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カメラ

最近すっかりカメラを手にしなくなって、カメラの話もしなくなったけど、
Twitterで久々に懐かしい写真が流れてきたので、その時に思ったことをつらつらと。

あきとんさんのツイートしたその写真を見て「水龍敬の絵みたい」という人がいて、驚いた。その写真は実際、まぎれもなく自分が撮った写真だった。カメラを手にしても、ペンを手にしても、自分の作るものは結局自分の作るものなんだな、と笑ってしまった。
写真の面白さの一つは、同じ被写体でも撮る人によって違う側面が出てくることだと思う。自分が撮った写真は、やっぱり自分の絵に似てくる。自分の撮りたい瞬間が訪れた時にシャッターを切る(そして後でさらにそれを選別する)という行為と、自分が描きたい絵を一から描くという行為の間には、結果を生み出すまでのプロセスが違うだけで、本質的にはそう大した違いはないのかもしれない。
カメラマンの腕前によって写真のクオリティが変わってくる、というのは勿論だけど、それ以上に撮る人によって画面の切り取り方、切り取る瞬間も全然違ってくるので、同じ被写体を違う人が撮った写真みてると結構面白い。そういう意味で写真は、何よりも撮影者自身を雄弁に写していると言える。この人は、この被写体のこういう部分を撮りたかったんだ。他の人が撮ったあきとんさんのROMなんかを見てるとそういうことを感じる。人物を撮る時などは特に、写真から被写体とカメラマンの関係性すら想像できる。

自分なんかは全然コミュ障だが、人物を撮るカメラマンにとって大事なのはコミュ力だと思う。カメラが上手い人はコミュニケーションが上手い。特に、撮影中に被写体の魅力を自分なりにうまく引き出すためのコミュニケーションが。ただそれは必ずしも、自分が撮りたいと思ったポーズを被写体となる人物にその通り取ってもらう、ということを意味しない。

前にせーぶるさんがこんなこと書いてた。
「世間の人はゼロから何かを生み出すのが創造であり、模倣することをコピーだと思っているが、実は模倣こそが創造であり、何も参照せずにゼロから自分の中にある創作衝動だけで生み出したものは、それこそ自分の劣化コピーに過ぎない」
モノを作る行為には、そんな逆説が確かにある。何も資料を見ないで自分の想像だけで絵を描き続けても上手くならないように、外的な刺激なしに自分のイメージだけで生み出そうとしたものは、当然に既存の自分の想像の範疇を出ることはない。自分が撮りたいと思った写真を撮る限り、それは自分の中にあるイメージをあくまで現実化したものにしかならないし、所詮は一人の人間の頭の中にある有限のストックを、無限に劣化コピーしていく試みでしかない。
しかし、被写体も人間であった場合、1から2を生み出すこともできる。「被写体の魅力」とは、自分の中にないものである。その相手の思いもかけない魅力的な側面をカメラに収めた時、それは自分という貧困なイメージの源泉から飛び出た新しい表現になる。こういう表現もあるんだと気づかせてくれる。人物を撮る面白さって、ひょっとするとこういうことなのかもしれない。

そういう意味では、あの写真を見て「水龍敬の絵みたいだ」と思われたというのは、良いことだったのか悪い事だったのかわからない。いつもの絵のクセがそのまま写真にも出てるとしたら、絵を描くことと何ら変わりない。何故そういうことになったかと考えると、たまたまそういう瞬間が訪れた時に自分がいいと思ってシャッターを切ったか、そもそもあきとんさんが自分の作風について大変理解があるために、意識的にそういう画を撮らせてくれているかだ。彼女は被写体としてプロフェッショナルなので、おそらく後者だろう。
でも確かに写真を撮っていて、自分でも思わぬ画が時折現れることがあって、そういう時にやっぱりカメラっていいなって思う。絵とか写真とかは表現の手段に過ぎない。もっと大きな意味で、自分のイメージを広げるために、人物写真なら被写体が、あるいは偶然が手助けをしてくれることがある。それがいい。絵にはない魅力だ。カメラはアウトプットであり、インプットでもある。

だから写真を撮る時は、自分は闇雲に撮ることにしてる。動きも細かい所は被写体に任せる。場合によっては大半がノーファインダーで、なんとなくレンズが被写体の方に向いてると思ったらシャッターを切る。これでもまだ自分のクセが出てたりするから、それもまた面白い。結局、どんな媒体を選択しようと、創作ってのは自分と向き合う作業なんだろうなと、ぼんやり思った。

仕事が忙しくて延び延びになってるけど、年に一度くらいはまたカメラを手にロム撮影に行きたい所存。

あの絵について


Twitterであげたこの絵。


rakugaki20170118







と、その反応について。
https://togetter.com/li/1071929

「炎上した」と思ってる人もいるだろうけど、俺は別に全然そうは思ってない。
そもそも最近のツイッターなどのSNSでは、その人のフォローしてる人ごとによって色々とTL上で見える世界が違うのが性質上当たり前のことであって、あるクラスタにとっては炎上と言えることでも、違うクラスタにとっては「え?あれって炎上してたの?」と後から知るようなこととか、全く知る由もないようなことだったりして、人によって様々である。
だから、あれを炎上と取る人もいるだろうし、単にエロ漫画家がエロ絵をあげていた日常と取る人もいるので、何をもって炎上と取るかはその人の主観にしか拠らない。

で、だ。

「炎上した」とみた人が「そこまで考えて描いてないだろ」と言ってるのをチラホラ見たので、ここに書いておくと、ぶっちゃけここまでの流れは全て想定した上であれを描いてアップしてる。

あの絵の元ネタ
が鉄道会社が「男の足おっぴろげ乗車問題(海外ではmanspreadingと言うらしい。wikipediaに記事まであるのでそちらを参照されたし。というか特に電車の乗車率が日本のように高いわけでもないアメリカやカナダ等でもこんな心底どうでもよさそうなことが名前がつくほど話題になっているのかと思うとそれだけで生きづらい社会だなとしか感じられない)」に対する啓発マナーポスターとして作成されたあの広告であり、「男性の方の中に乗車マナーの悪い方がいらっしゃいます。女性の方は大抵みなさん綺麗に座ってらっしゃいます。見習って下さいね」みたいな、ともすれば男性の方をむしろ差別してるんじゃないかみたいなメッセージ性をもった(実際manspreading問題は海外ではむしろ男性差別だとしてカウンター批判されているらしい)、でもまぁ色々と手を替え品を替えやってきた啓発ポスターの一幕に過ぎないのだろう、としか普通に考えたら受け取られないであろうポスターに対して「女性は綺麗に座った方がいいのに男性は自由に座っていいってことかよ!女性差別!」みたいな国語の偏差値5くらいの解釈に基づいた怒りを表明している方が大勢いて、そういう人達の怒りにおそらく油を注ぐ結果になるだろうことは当然に予見していた。

しかし「炎上するかもしれない」という予見に対して、それを必ずしも避けて安全な表現を心がけるというのもどうだろう。危ない表現するなと思う人もいるかもしれないが、そのようなことが「ネットマナー」としてまかり通るような世の中になってくると、たとえば炎上で吹き上がるような人々の寛容性が低くなればなるほど、そして自分自身の見識が広まれば広まるほど、「これを描いたらあのへんの人達が炎上するな。あれを描いたらあのへんの人達が炎上するな」と思って何も描けなくなるのではないか。それが高じて行き着く先はどんなファシズム国家による表現統制よりも恐ろしい結果を招きはしないかという危惧も俺の中にある。実際に絵柄のロリっぽい作家などは既にSNSにおいて一切の表現の場を奪われているケースもある。誰もが不快にならない、誰にも目をつけられない表現などはないし、仮にそんなものがあったとして、そのような表現ばかりが称揚される社会の方が危険ではないかと自分は思う。
炎上することの何が悪いのか。別に狙って炎上させてるわけでもないし、言うほど炎上リスクというものは致命的なものでもない。炎上騒動を見て「この人の言ってることが正しい」と評価してくれる第三者だっているし、そこは何かを表現することによって生まれるプラスマイナスで、意外とバランスが取れていたりするものだ。ことなかれ主義的な感じ方からするととかく一切のクレームを避けたいと感じるかもしれないが、ネット炎上というものに加担する人はネットユーザー全体の0.1%以下だという統計もある。実際、こと炎上となった時に噛みついてる人々というのはよく見るといつも同じ顔ぶれだったりするし、そういう時に5人10人くらいブロックしてみるとあっという間に批判コメントというものは目につかなくなる。あれほど日本中で騒がれたと思われた東京オリンピックのエンブレム騒動ですら、実はわずか50人ばかりの中心的人物が騒いでいただけだったという統計もあるから驚きだ。そんな少数の、愚にもつかない誰かの身勝手な正義感や快不快の感情にばかりおもねって、炎上を恐れて表現することの価値を見失うことのほうが、もっと悪い結果につながるのではないか、と俺なりに考えた結果、あえて地雷を踏むというか、地雷の存在自体を無視していくことにしている。それは俺なりのネットの使い方のスタンスであり、そこに文句を言われる筋合いもないと思う。その結果を自分で引き受ける覚悟はあってやっていることだし、それらは俺の自由の範疇だ。「これをしなければ炎上しなかったのではないか」なんて後から分析するのは全部後出しジャンケンのようなもので結果論だと思う。

あの絵を見ておそらく想定されうる批判的な反応というものも、おそらくこんなとこだろうと考えていた。

・現実の社会問題に対して本気で怒っている女性の感情を茶化している!
→元の広告にそのような怒りを表明するようなメッセージ性を誤って受け取り、それを当然の正義のようにして発露する人々の極端に歪んだ「感情」自体に自分は共感できないと思って描いているし、そのような一部の女性の感情論がすべてに優先して配慮すべきだと主張されることが、むしろ「女性は感情の生き物」というバイアスを生む結果にすら繋がっているのではないか?大多数の女性は、あなたのように感情的な生き物ではなく、もっと理知的だ。自分の感情に内省的であることの方が、大人としては正しいのではないか。自分はエロ漫画家なので「子供」のためにあの絵は描いてない。怒りの感情というものはともすればそのまま発露すれば暴力にしか繋がらない危険なものであるし、実際に自分の表現の受け取り方を唯一絶対の解釈として信じ怒りを表明する人々によって多くの表現者が萎縮し、あるいは仕事を奪われるケースが現実に沢山起きている。俺は自分自身というよりも、第三者としてそうした表現者達が受けている抑圧に強い憤りを感じているし、特定の誰かに向かって罵詈雑言を吐くよりも、不特定多数に向けられた表現について「傷つけられた!」と感じた自分の感情が全てで、そうした自分が加害者にはなり得ない、というような二元論的な思考の人には全く賛同できない。目の前の生身の人物が沢山の人々に攻撃や誹謗中傷を受けていることに対して鈍感でいられる人間が、よもや自分の被害感情に寄り添ってもらうことなど期待すべきではない。

・あの絵は女性が性的に消費されることを肯定している!
→そもそも異性にパンツを見られて恥ずかしいとか、裸を見られて恥ずかしいという貞操観念、道徳感情自体がごく近年に、家父長制の概念とともに一夫一妻の関係性の中で女性が貞淑を守るために導入された概念であって、家父長制打倒をうたうフェミニズムの文脈でそうした価値観を肯定すること自体がおかしい。あの絵の女性は客観的に見てパンツを他人に見られることなど何とも思っていないし、それが男性からどう見られるかという感情にとらわれていないわけで、それは男性から押し付けられた道徳感情、羞恥心から解放されたフェミニズム的に正しく自由な女性の姿である、とも受け取れる。あなたのその羞恥心、その共感こそがかつて男性社会によって押し付けられたものである、というのが本来のフェミニズム的解釈に基づく歴史的事実ではないだろうか。
自分はそうした価値観の普及する以前、男性も女性も異性に裸を見られることを恥と思わず混浴などが栄えていた日本の伝統文化を尊重しているし、そのような価値観の変化が同じ国の中で短期間で起きたということは、同様の変化が自分達とは異なる世界観において起きる可能性も当然にあると考えていて、そうした可能性、自分達とは異なる常識を持った人々をフィクションとして描くおもしろさ、みたいなものをエロを交えて表現してる、つもりである。いま、自分達が持っている価値観を、時代も場所も必ずしも自分達と同じそれではないフィクションの人物にあてはめて考えること自体ナンセンスであり、表現の受け取り方として不適当であると自分は思う。歴史上に存在する小説、映画、戯曲、いずれも必ずしも現代社会の価値観から肯定されうるものばかりではないし、それらを現代の価値観に合わないからといって断罪することはまったく無意味な営みであると言えよう。「そうした表現意図が結局私には伝わってこなかったから、表現として劣ってますよ」という人もよく見かけるが、そういう人は「自分はアラビア語が読めないからアラビア語は表現として劣っている」というのだろうか?表現を読み解くには共有された知識というものが不可欠なのである。
そもそも性的に消費されるというのは素晴らしいことだと自分は思う。何故ならほとんどの人間は、特に男性のほとんどは一般的に性的に消費される価値などないと今の社会では考えられているからだ。あの絵を見て「現実の女性だったらあんなことしてるのはデブスばかりだし、目が腐るし、くさそう」っていうツイートもいくつか散見された。俺はそれの方がミソジニーだと思う(もっともフェミニズム文脈においてしばしばミサンドリーが正義の顔をして横行しているのを見ると、ミソジニーもまた必ずしも当然に批判されるべき価値観であるとは男女平等の観点から自分には考え難い。どのような価値観を持つかというのは個々人の自由であるべきであり、その価値観に基づく結果を受け入れるのもまたその人の人生だからだ)が、実際あそこに描かれている女性は世間一般の女性や男性と比べても性的な価値の高い美しい女性である。そういう絵なのだから当然であるが、その性的な価値や美しさというもののためにしばしば現実の人は努力する。その道のプロともなれば我々凡人には及びもつかぬような血道をあげた努力の結実として性的な価値というものを演出する。自分はエロ漫画家なので、当然にそうした作られた性的価値というものの美しさを肯定している。人が単にそこにいるだけ、裸でいるだけでは普通はエロくなどならない。エロさとは計算と努力に裏打ちされた芸術品である。性的消費論に憤る人々は、そもそも自分が安易に他者に性的に消費してもらえると当然に、安易に考えすぎである。「女性の性というのは、男性に当たり前に消費されるものなんだ」というのは驕りであるし、主語も述語も大きすぎる。性的に消費されるということは、例えるならダイヤモンドが消費されることと同じことだと自分は考えている。美しく磨き上げられたダイヤモンドは色々な人に狙われるから鍵をかけて保管されるだろうし、ショーケースに飾られて色んな人に賞賛されるだろう。だが、そこらへんに転がっている、誰も目もくれないような石ころを盗もうと考える人はいない。自分が石ころではなくダイヤモンドであると、何故当然に信じられるのか。性的な価値というものを安易に考えすぎである。
ましてや、他者の性欲や性的好奇心といったものを一方的に断罪して平気でいるものが、一方で自分の性的好奇心は満たそうなどという自己中心的な考え方は論外である。BL作家やBLファンの中にもこのような感情に共感しミサンドリーを発露する者がしばしば見られるが、自分達の男性同性愛者への好奇心を棚上げして他者の性欲を断罪することなどおよそ許されることではない。特に表現者であれば、他山の石として面白がって攻撃に加わる前に、自分の表現が攻撃された時のことを当然に考えておくべきである。それは男女が逆であった場合も同じだ。

・女性であればあのような表現は不快に思って当然!女性差別だ!
→俺はそもそもそれがジェンダーバイアスだと思っている。エロ漫画を描くのも読むのも大半は女性だということが最近の統計でわかってきた。BLやレディコミを含めればポルノ漫画の多くは実は女性によって消費されていたのだろう(そもそも少女漫画や昼ドラといった従来女性向けとされた表現が基本的に性愛をメインテーマとして描かれているものが多かったのだから、同じく性愛をテーマとする表現に女性が親和性を持っているのは考えてみれば当然のことかもしれない)自分の絵にも大半の女性は好意的な受け取り方をしてくれていたし、元の広告にも全く批判的な受け取り方をしていない女性の方が多いことだろう。それを「女性の中に女性差別が内面化しているからだ」と主張する人がいるが、大半の女性が同意しない差別性の根拠がいったい何によって担保されるのだろう?それは「自分の考える女性像が正しい女性の姿である」ということの押し付けではないのか。フェミニストはよく女性ならば自分と同じような感じ方、考え方をすると当然のように主張するが、自分はそれ自体フェミニズムに対するバックラッシュだと思っているし、そもそも第2波以降のフェミニズム自体が一部のアルファメスによって形成された「あるべき女性像」の押し付けであり、いわば強者女性によるホモソーシャル、マチズモの産物なのではないかという疑念が拭えない。女性という総体を自分達にとって都合のよいものとしてコントロールしようとすべきではないし、人の考え方感じ方は性別問わず多様であり、またそうであることを尊重するべきだ。自分の周囲にも世間一般の女性の考え方とは異なる考え方をもつ女性も多い。自分はそうした女性達一人一人の自由な思想をこそ尊重したいし、そういう考え方に基づいた上で水龍敬ランドなんてものを描いている。それが苦手という男女も、好ましいと思う男女もいていい。そういうのを認められるのが本当に成熟した社会ではないのだろうか。
フェミニズムが第1波の時代に社会的平等を達成して以降、差別の概念は極めて主観的なものになってしまった。ラディカルフェミニズムのアンチポルノ論は、リベラルフェミニストや現実のセックスワーカーにとって女性差別だとも言われる。そのリベラルフェミニスト達もカルチュラルフェミニズムを女性差別だと言うだろう。家父長制を女性差別だと考えるフェミニズムは、専業主婦という生き方を選択したい女性に対するまた別の抑圧ともなっている。誰かが女性差別的だと感じる表現が、別の女性にとって好ましく、あるいはその人生にとって不可欠なものであることも多い。誰にとっても自明に「差別的である」表現なんてものはこの世のどこにもないのだろう。
そもそもいまの女性の権利自体が「女性が男性のようにふるまうことははしたない」とする既存の道徳観念に逆らう表現から生まれたものであって、フェミニスト女性が道徳的でない表現に対してバッシングをするということ自体が天に唾するも同然である。既存の道徳やマジョリティの価値観に反することなしに現代の我々の人権もありはしないし、今後歴史を前に進めることもないだろう。既存の道徳をただ肯定するだけの表現になんの面白みや価値があるのか。それこそが権威主義やポピュリズムではないのか。特定の表現に対して脊髄反射的な拒否反応を示した時こそ、一拍おいて冷静になってその表現の意味を考えるべきだ。我々はそうした理性の蓄積によって現代に生きているのだから。
むしろあの広告に批判的意見を寄せる人を擁護する方が女性差別的だと自分は思う。表現の素晴らしい所は、そこに人によっていくつもの受け取り方があることで、当然に受け取り方も性別問わず人それぞれだ。にも関わらず、「この広告は女性への偏見を内面化している!女性差別!」みたいな自分の穿った受け取り方を唯一絶対の解釈と信じて、そのような脊髄反射的な感情論に基づいた攻撃をするような、ごく一部の偏狭な女性の意見を「女性代表の意見」のように受け取り「社会は女性に配慮すべきだ」などと喧伝することは、繰り返しになるが「女性は感情の生き物」という偏見を助長することにも繋がる。そんなものがフェミニズムだとしたら、それは限りなくミソジニーに近い。そのような難癖をつけるような行為を方々で繰り返して、差別が解消されるのか。そうではないだろう。「女性を表現に使うことは高いリスクがあるので、なるべく使わないほうがいい」という暗黙のルールが生まれ、表現の場から女性が排除されるだけだ。かつて黒人差別に反対する会がカルピスの広告などにまで難癖をつけた結果、黒人が日本の表現物の中に出てくることは極めて稀になった。それと同じことが起きるだけではないか。それは結果として男尊女卑の社会を生み出すだけであり「女性は厄介者」というバイアスを助長するだけである。理性的、論理的でない反応は当然に批判されるべきであり、女性の意見だから男性はなんでも擁護すべき、というのはむしろ家父長的でありミソジニーである。
現実に、同じような路線で「女性の意見は極端な一部の意見であってもなんでも肯定」で誤ったフェミニズムを推進してきた韓国では、男女対立や男性差別が大きな社会問題化しており、議員や大統領など要職に就く女性が急増しているにも関わらずジェンダーバイアスが日本より酷いと言われており、また男性に意図的に冤罪を着せ犯罪者に仕立て上げようとして逮捕される性差別主義者の女性が続出しているという。それがまた男性による女性差別を助長する負のサイクルだ。隣国である韓国社会というのは日本社会の鏡のようなものであり、韓国で起きることは大抵、何年か後に日本でも必ず起きている。これは隣国からの警鐘であろう。

・表現の自由は批判されない自由ではない!
→上記の理由から、そもそも表現の自由などは全く関係ない。自分の主観だけで、男女問わず多くの人の手が加わっていることが当然に予想される商業的な表現物を、安易に差別的などと一面的なジャッジをして批判をすること自体が表現者に対して失礼だとは思うが、決して自分は表現の自由を絶対視するわけではないし(むしろポルノ屋は表現の自由を盾に好き勝手やっているだけに違いないという思い込みの方が偏見であろう)、もちろん表現を批判する自由もあってしかるべきだが、そもそもあの広告に対する批判そのものが反理性的であって、そんなものを正当なものとして受け取ること自体が女性差別を助長するとも考えているからこそ批判するのだ。その批判もまた正当なものであり、またその批判に対して批判をすることにも当然に表現の責任が伴う。誰も自分の表現や批判だけは批判を受けないなどと思ってはいけないのであって、この指摘は完全にブーメランになる。自分達の「批判」は「批判」されないなどとどうして思えるのか。
 
・なんでもエロと絡めて描くから反発を受けるんだ!
→自分はエロ漫画家であり風刺作家ではないのだから、エロを抜いて単に風刺を絵で表現する方が職業意識に悖っている。それがやりたければエロ漫画家をやめたらいい。エロ表現の良いところは、エロけれさえすればそれ以外の部分では何をしても良いということである。SFを描いてもいいし、ファンタジーを描いてもいいし、風刺をしてもよい。唯一のルールであるエロささえ忘れなければ。
だから自分はそのルールに則ってエロを絡めて描く。単にその表現をエロイラストと受け取ってもいいし、エロいうえに風刺がきいてると受け取ってもいい。それは受け取り手の自由だ。風刺だがエロくない、が一番良くない。それはエロ漫画家がエロ漫画家として描くべき絵ではない。だから「エロくない」という批判があればそれはもう真摯に受け止めるしかない。趣味が合わなかったと残念に思うだけだ。「エロ絵にマジになるな」と言われるのは、つまりそういうことである。エロ漫画家の絵がエロいことに政治的意図を感得する方が間違っているのである。やたらと表現に不寛容な人々こそが、性表現のそうした鷹揚さから何かを学んで欲しい。


……と、いくつか考えうる限りの反応とそれに対する反対意見を脳内で10分ほどシミュレートしたのち「そもそも俺はエロ漫画家なのであって、こういうのエロくない?と思って描いた絵をアップするのは仕事上当然のことであって、そこにとやかく言うような変なイデオロギーに染まった攻撃者にわざわざ彼らの主義主張の文脈に沿って配慮すること自体おかしくない?」と思い直し、とやかく言わずにエロいかエロくないかで見ろよ!と思ってアップしたのが、あの絵である。

だからそれに対する反応のほぼ全ては当初想定された範疇であるし、そのことについて何の意外性も感じていない。そういう一切を一通り考えた上で俺は無視することにした。「自分達の被害者意識に寄り添ってくれる仲間か敵か常に上から目線でジャッジしながら作品を評価される」なんていう不健全な関係は、こちらから願い下げだ。

俺はいつも通りエロアイデアのラフ絵をアップして、ファンはそれ見て喜んでくれた。
いつも通りのエロ漫画家のなんでもない一日だ。
絵を描いて、喜んでくれる人がいる、幸せなことだと思う。
これからも頑張っていきます。おわり。

「AV強要」告発の流れ

先のAV強要事件、結局のことろ最終的には派遣法違反で略式起訴で終わった。あれほど世間が騒ぎ、おそらく警察が徹底的な事実関係の調査をしたにも関わらず、強要の事実は確認されなかったのだ。(偏向報道のせいで、多くの人は強要の事実がまるであったかのように誤解したままではあるが)

そんな中で、またもAVの出演強要を訴えるとする女優が現れた。


一見すると彼女らの主張は正当なように見える。世間の殆どの人は「彼女らの勇気ある行動が、どれほどの女性を勇気づけるだろうか!」と賞賛するだろう。しかし自分は言いたい。彼女らの行動は極めて愚かで、卑劣だ。その理由は、現在の社会情勢にある。

そもそもAV業界は一般的に正当な職業として認められず差別を受けてきた。それはAV制作の人々のみならず、当のAV女優達の、仕事を辞めた後のキャリアや人生にまで深い影を落とすほどの根深い差別意識である。日本社会の多くの人々はそうしたポルノ差別を内面化したまま生きている。だからこそ先のような、「そもそもAVに派遣する行為が違法」だとか「AVを撮影すること自体が違法」だという判決が裁判においても普通に下される。彼ら彼女らははっきりと社会的弱者であり、救済されねばならないのはまずこういった差別からである。

そこでAV強要を訴える女優が1人、2人と出ればどうだろうか。業界には毎年何千人もの女優志望者がやってくる。彼女らのような存在は全体の中で見ればごく一握りであり、一般的な職業における労働強要に比べたらまったくクリーンといってもいい程度である。(何故そのように断言できるのかは過去の記事で説明済である)しかし、AV業界全体への社会的差別がこのごく僅かな事例を大きく取り沙汰し、社会問題化する。彼女の告発はそのままかつての同業者への攻撃となり、路頭に迷わせ、また彼女自身の今後の人生に落ちる影をもより深いものとするだけであろう。彼女の告発は、ただただ卑劣であり、一時的な売名行為にすぎない。

断じて自分は強要を肯定しているわけではない。そもそも自分はセックスワークを一般的な労働と同等に見ている。全ての労働において同意しない強要行為や危険行為は正しく監督され是正されねばならない。これは当然のことである。逆に言えば、AVだけを問題視する人というのは、その時点で既に職業差別を内面化しているとも言える。「女であれば嫌がって当然のAVなんていう賤業を、まして強制的にやらせるなど言語道断だ」という差別心に裏付けられた義憤があればこそ、このようにAV強要が社会問題化するのではないか。日本で当然のようにまかり通っている違法残業や不当賃金を野放しにして、ごく少数例のAV強要問題に血道をあげることが公平で正しい行いだとは全く自分には感じられない。彼女らの労働も一つの労働行為であると何故認めることができないのか。そうした差別意識が解消されぬまま、いたずらにAVを問題化することで解決する問題などありはしない。より根深い差別問題へと発展していくだけだろう。

ましてこの風潮に乗じるように、被差別者・弱者であることがわかりきっている、かつての同業者を攻撃するために声をあげることの何が勇気か。AV女優は被雇用者ではない。イヤだったらその場で言うべきで、訴えるならその時に訴えるべきだったし、そうすることのできる権利が、チャンスがいくらでもあったはずだ。AV業界における女優の地位の高さを自分はよく知っている。それを自分の弱さを棚上げして、ここがチャンスとばかりに後出しして弱いものイジメに加担することの何が正義なのか。このタイミングで声をあげれば誰もが擁護し賞賛するだろう、とわかりきったことを実際に行動に起こすことの何が勇気なのか。彼女は自分から仕事を選び、自分からイヤな仕事を引き受け、たまった恨みを体よく晴らす方法を見つけただけだ。

例えるなら、今のヨーロッパで「イスラム移民に強姦された」と訴えた人がいたとしよう。その人の訴えは結局何の証拠もなく強姦の事実は認められなかった。だが次々と「そういえば私も5年前に強姦された」「私は10年前に強姦された」と告発が相次いだとしよう。それは公正なことか?それがイスラム差別を助長することが誰の目にも明らかであるにも関わらず、事実関係も定かでない過去の話を蒸し返してここぞとばかりに糾弾する行為は卑劣ではないのか?
彼女たちのその被害そのものは救済されるべきだろう。被害に遭った当時は「移民差別はよくない」という社会風潮のせいで言い出せなかったというなら、それも斟酌されるべきだろう。だが、いざ一部の無法者のために石を投げられ始めた被差別者に対して、ここぞとばかりによってたかって集団で石を投げて抑圧しようとする態度は、実に愚かだと自分は思う。AV業界やセックスワークは常に社会的に差別される立場にある。このような流れが生まれて、「ごく一部の監督やプロデューサーに限られた問題だ」と受け取ってくれる人がいるだろうか?おおよその一般人はそう思うまい。「やはりAVは危険で賤しい仕事だ」と誰もが思うに違いない。彼女の告発は、彼女自身を弱者として看做すと同時に「醜業婦」としてのイメージも強化するのだということに気づいているのだろうか?

ポルノ産業は今や斜陽の一途である。娯楽の多様化や無断アップロード動画によって売上げは右肩下がり、見たければ過去の作品がいくらでもアーカイブ化されていて、わざわざ新作を買わなくても済んでしまう。儲からなくなった女優達はTVに出たり、アイドル活動をしたり、コスプレをしたり、様々な副業に精を出すようになった。今ここでAV撮影が全面的に自粛、となったら日本の合法的なポルノ産業は確実に壊滅するだろう。そこで働いていた多くの男性も、女性も、マイナスでしかないキャリアを抱えたまま路頭に迷うしかない。残るのはよりアングラ化した危険なアダルト文化だけだ。


AVそのものを攻撃する意図はないと彼女は言う。だが、本気でそう思っていたとしたら底抜けのバカだ。いまこのタイミングでこの事実を告発して、AV業界が息の根を止められないと本気で考えているわけがない。彼女は都合よく建前を振りかざして「良い被害者」を演じているだけだ。あとに残されるのは、後ろ足で砂をかけていった女優たちによって窮地に追いやられた、その他大勢の女優たち、制作者たち、企業人たちである。一つの産業まるごと、職業差別意識をタテに攻撃し死滅させようとしている彼女らの行いは、いずれ歴史が正当に評価してくれることを願う。

ポルノのない世界、それは女性の権利が守られた素晴らしい世界だろうか?世の中を見渡しても、歴史を俯瞰しても、ポルノ表現の抑圧された社会とは、同時に女性の権利の抑圧された社会でもある。女性が自らの身体を使って何かを表現することを「猥褻だ」「愚かだ」「下品だ」と差別し抑圧することは、同時に女性そのものの身体性、女性性それ自体への差別に繋がると考える方が自然だ。「女性を守ることのできる社会」を目指す人々は、やがて「守るに値する女性の姿」を美徳とし、女性の自由を攻撃するようになるのだ。
男も女も、自分の責任のもとで、どんな仕事に就いたっていい。どんな表現をしたっていい。その結果として生じた不利益にも自分で責任を取る。その程度の自由と権利の保障されない社会では、どうあっても平等で公正な社会など遠い夢の話でしかないのだろう。

第二の家父長権-衆愚とフェミナチに作られた新世紀の性差別


いま、AV強要事件がまたしても捏造されている。

なぜ捏造と断じることができるかといえば、これが派遣法を根拠とした摘発だからである。つまりニュースにおける「強要」という語それ自体が今回の事件の論点として不適格であり、そんなことは何ら問題になっておらず、「ポルノへの斡旋それ自体が有害業務への斡旋を禁ずる派遣法違反であるかどうか」がいま問題とされているのであって、強要の有無は全く争点になっていない。仮に強要や契約内容の虚偽があったとしたらそれは強姦ないし詐欺事件であって罪状が変わってくる。警察が本来のターゲットとは異なる罪状でまず取り締まるという運用をしないこともないが、だからといって今回の事件において強要が既に認められたものと断じて報道されたニュースはおおよそ拙速、かつ限りなく捏造に近い内容であるという事実は疑いようもないのである。これは先日のシンガーソングライター刺傷事件における「地下アイドルがファンにメッタ刺し!」も似たようなもので、たとえ内容がデタラメでも耳目を集める見出しをつけたほうがニュースメディアは売れるということなのだろう。公器の資質が疑われる話だ。
 
第一、今日のポルノ産業においてわざわざ強要して出演させるということ自体が、ポルノ業界の実情を知っていればおよそ考えられる話ではない。AV女優など今時は自発的な志願者が沢山いて、それでもなれる人、売れる人は容姿、技術ともに優れたほんの一握りの女性だけだ。その選ばれた一握りすら今は昔ほどの収入を得られておらず、大抵の女優は普通に働いた方が稼げるとすら言われるレベルにまでなってきている。それでも好きだからやっている女性達が多い中で、知名度のある女優はアイドルのようにユニットを組んでステージで歌や踊りまでこなす時代だ。この業界で今となってはマルチな能力を求められている。ネットの違法アップロードの影響をいま一番深刻に受けているのがこのアダルト業界だと言われている。
まして女優以外のスタッフや監督、企業がおよそ儲かっているとは考えがたく、ポルノが全体的に売れなくなってきている今、なんとか安く沢山作って産業を維持しているのが実情である。いってしまえば今時、可愛い女の子を連れてきて騙して無理矢理AVに出すなんてのは「集英社がちょっと絵の上手い素人を拉致して会社に監禁して無理矢理ジャンプの漫画を描かせている」くらい荒唐無稽な話だったりするのだが、あまりに内情が表に出ない業界であるがゆえに、そのリアリティの無さを多くの人は共有できていない。だから、こんなデタラメな報道にも騙されてしまう。
96年のストックホルム会議でも「日本は児童ポルノの主要な製造国である」などと言われ悪しき児ポ法成立の切欠になったが、よほど恣意的な調査をしない限りどの国の統計でも、流通している児童ポルノのほとんどは日本製ではないことが明らかになっている(http://blogos.com/article/78537/)。大体、ポルノそれ自体が刑法によって規制されている日本がポルノの主要な製造国になどなり得ない。今となっては日本の40代以下の人々は、海外と違ってそれこそ児童ポルノなんて見たこともないのではないだろうか。だからアイドルビデオやメイド喫茶、はては漫画やアニメまで「児童ポルノだ!」と騒ぎ立てる。誰もホンモノを見たことがないから、何にでも児童ポルノのレッテルを貼ってしまえば大衆は信じ込んでしまうことを悪用しているのだ。
先日の男児しつけ置き去り事件の時も、ABC、ガーディアン、BBCなど海外の大手メディアはこぞって日本の人権意識の低さをバッシングし「児童の自己決定権を尊重しない国」だと連呼したが、それを聞いた自分はまさか欧米社会に児童の自己決定などという概念があったのかと呆れ返ってしまった。義務教育も、性的同意年齢も過ぎ、就業も婚姻もできるような年齢の高学年児童の性の自己決定権を、徹底的に抑圧するよう求めてきたのは他ならぬ彼らではないか。海外メディアは自分達の国の法律や運用がどのようなものであるかも知らないのだろうか。
08年のリオ会議の時も、日本のアダルトゲーム業界などが「反社会勢力の資金源」とバッシングされた。当然現実にはそんなわけはなく、零細企業も多かったアダルトゲーム業界はレイプレイ事件なども伴って次々に倒産しており、資金源どころか身内を食わせるのもままならない状況だった。無知やデタラメな報道は人の経済権や生存権を容易に危機に晒す。本当に社会にとって有害なのは、そういうデタラメな情報を悪意ある者達に流させるがままにしておくことである。

人は知らないことがあると、知らない部分を想像で補って世の中を捉えてしまう。それこそが偏見や差別、陰謀論などにも繋がってくる。それは子供でも、大人でも、賢者も善人もみな同じことだ。無知の知とはよく言ったものだが、知らないことは恥ではない。むしろ知っているつもりで物事を語るのが恥なのである。ロクに学識も知見も持たずに、自分とまるで接点もない業界のことについて、胡乱な報道や聞きかじりの知識に基づいた思い込みでどう語ったところで頓珍漢な議論にしかならないのは当たり前なのだから、本当に良識ある態度を取ることを思えば、「知り得ないことには沈黙せねばならない」。
それを良識ぶって「強要があるなら許されるべきではないが」などと枕詞につけなければポルノの擁護すら許されないようなこの現状そのものが、セックスワークへの根深い社会的差別を証明している。ポルノ以外の労働行為において、はたしてみんな何一つ強要されていないのか。「300本に出演しているからといって、強要がなかったと決めつけるのはよくない」などと言う人もいるが、これがAV女優ではなく、ミュージシャンや作家だった場合も本当に同じことを言うのか。自分らよりはるかに実情に詳しいであろう直接の知り合いや同じ業界の人々がみな口を揃えて「ありえない」とはっきり断じているのだから、事情を知らない部外者としてはそれをまず信用するのが筋ではないか。それなのに外部の人間がいたずらに「強要がなかったとは言い切れない」などと言うのは一見道徳的であるように見えるが、それは結局「AVの仕事などどうせマトモな仕事ではないだろう」という当て推量でありセックスワーカーへの差別心の発露でしかない。「そうは言ってもホントは無理矢理やらされてるんでしょ?」みたいな差別的な意見こそが、これまで当のAV女優たちをどれだけ苦しめてきたか気づくべきだ。実際につい先日、人権団体を巻き込んで「AV女優などという仕事に需要があること自体が問題」と職業差別をぶちあげた弁護士(http://worldhumanrights.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/av-1d0e.html)がまさにそのような発言を開陳しているではないか。これでは彼女がこれまで救済してきたと自称する過去の「AV被害」にまでも疑いの目を向けざるを得ない。相変わらず業界の声にまともに耳を傾けもせず、知己の人々が誰もが「楽しそうにやってたじゃん!」と声をあげていることを無視して単なる出演本数の問題に矮小化し、業界の人間にヒアリングすらしたことのない門外漢が、某研究者よろしく「AV強要はありまぁす!」ってワケだ。推定無罪の原則さえも忘れ(この場合、無罪が推定されるべきはプロダクションの人間だ)、被害を訴える側の一方的な主張だけを信用し他のことに耳も貸さない、他の可能性を訴える意見は潰して回る、という態度を取り続けるのでは、いつか彼女自身の職責にすら重大な悪影響を与えるのではなかろうか。
ポルノを他の労働行為と本当の意味で対等に考えていたら出てこないような発言は、ポルノ擁護者の側からすらも頻繁に見受けられる。児童ポルノの時もそうだが、他の児童労働や児童虐待についてはダンマリの人々が、なぜポルノの名を出せば途端に語気を荒げ児童保護におよそ繋がるとも思えないような過激な表現弾圧や過剰な取締りを推進してしまうのか。ポルノという語の悪しきイメージを便利に使ってさも善良な態度のようなポーズを取るのは卑怯であるばかりか、ポルノ産業従事者そのものへのヘイトに他ならない。セックスワーカーが本当に戦わねばならないのは強要などではなく、こうした社会的差別そのものだ。
そうした実情も顧みずポルノ叩きに走る人権派弁護士やHRNのような人権団体がなにより卑劣なのは、本当にAV業界でそういう無茶が横行していたといわれる時代には何も言わず、業界の力が弱くなってきた今になって実情と乖離した職業差別的ヘイトスピーチを展開しているからだ。弱者の権利を代弁していると主張する彼らはその実、溺れた犬を棒で叩けの精神でイジメをやっているようにしか見えない。
必要なのはAV女優の権利保護なのだろうか。女優の権利はこれまでも十分すぎるほど現場では守られてきた。撮影中にイヤなプレイがあれば簡単に断ることだってできたし、業界を抜けた先のキャリアで不利になる場合は過去のリリース作品を市場から回収する権利だってあった。だからこそAV女優達は今回の逮捕や報道を事実誤認であり不当として反発しているのではないだろうか。本当に必要なのは、出演者である彼女らに限らず性表現やセックスワークに携わる人々全てが社会的差別を受けないための運動ができるような団体であろう。願わくばこの動きがそうした流れの切欠になることを期待したい。

どんなに道徳的に見える人でも、全く実情を知らない接点も持たない世界の人々に対しては必ず偏見を持っているものだ。偏見を持たない人などと言うものは有り得ない。それは社会と接点を持たず何の価値観も有していないことと同義だからだ。何らかの社会集団に属する以上は、その集団への帰属意識それ自体が、自分の属さない集団に対するバイアスに転化する。だから自分は、人の差別心を殊更攻撃するような反差別運動には同調しない。差別は誰もが「道徳」という形で必ず内面化しているものであって、自分の中にあるそうしたバイアスに気づくことは大切だが、全く差別心を持たない人間などというものは社会には存在し得ず、他人の内心に差別を見出して叩くという手法を用いれば全ての人間を攻撃可能だからだ。
そんな中で、既に社会のマジョリティに「○○を差別してはいけない」という認識が共有されている差別、すなわち現在の女性差別や黒人差別、同性愛者差別、これらは本当の差別ではない。差別問題の難しさは、それが道徳と密接に結びついていることによる。かつて「女性が肌を露にするなど、政治に口を出すなど、男の前を歩くなど、はしたなく不道徳だ」と言われた時代があり「黒人は知能が劣る人種であり奴隷として使役するのが当然」と言われた時代があった。その時代にその価値観は常識であった。常識や道徳の中にこそ本当の差別はある。今の社会にも、同性愛者以外の性的マイノリティ差別、とりわけ小児性愛者差別、あるいはオタク差別、そしてセックスワーカーへの差別、こうした差別は「道徳」の名を借りて公然と行われている。こうした差別はその差別性を社会に訴えようとしても、多くの人はまずそれが差別であると認識してもくれない。しかしながら明らかにそれらの集団の人権や尊厳を不当に扱う言説、あるいは罪もない人間の経済権や生存権を剥奪して刑務所に収容してしまうような歪んだ法律、そしてそれを当然のこととして受け入れてしまっている社会実態は確かに存在する。そして、そういうものこそが本来の差別なのである。かつては女性や黒人、同性愛者たちも、そうした自分達の主張を受け入れてくれない社会と戦ってきたのだが、戦いが終わり差別の解消された今、一部の人達はむしろ差別に加担するようになってしまった。いや、どちらかといえばかつて差別されていた集団だからこそ、積極的に差別に加担するのだろう。イジメに遭った子供は他人の心の痛みが分かる優しい子供になどならず、むしろ他人を積極的にイジメるようになるのと同じだ。一度闘争をはじめた集団が権力の座におさまれば必ず他者を抑圧するものだ。
差別問題というのは終わりのないババ抜きのようなものだ。誰かを差別から救うために、必ず誰かを被差別者の椅子に座らせなければならない。性嫌悪者を救うためにはセックスワーカーを差別せねばならないし、同性愛者を救うためには宗教者を差別せねばならないし、女性を救うためには男性を差別せねばならない。ある価値観を救済するためには必ず別の価値観が犠牲になる。いま差別されている集団の中には、かつては全く差別されてなどいなかったはずの集団が多く含まれている。江戸時代まで日本で同性愛やセックスワークは全く差別の対象ではなかったし、ごく最近まで小児性愛は差別の対象ではなかった。彼ら彼女らの現在受けている処遇は、ただ差別者-被差別者間のヘゲモニーの奪い合いにたまたま負けただけに過ぎない。差別の解消は進歩主義などでは断じてない。これは全人類が全知全能にならない限り続く果てのない椅子とりゲームだ。
ただ、同時に自身の中に内面化された差別意識を恥じることはない、と自分は思う。セックスワーカーに対する差別意識も、そもそもセックスワーカーの実情を知らなければ仕方のないことだ。もっと広く日本人、アジア人全体に対する差別というのも欧米社会にいまだ根強いわけだが、そもそも生の日本人の姿を知らない人間が差別心を持つのは当たり前である。知らないことを罪としてなじるのは不公正であると自分は思う。被差別者の本当の姿を知らない人に真実を知ってもらうことこそがメディアの意義である。責められるべきは偏向した情報を流布し、差別をむしろ煽っているマスメディアであろう。彼らは公器として真実を伝えるべき責務を負いながらポピュリズムに迎合し利益を享受するために、明らかに誤った情報を精査もせず垂れ流して集団心理やモラルパニックを煽り不必要に社会を混乱に陥れている。それに振り回される一人ひとりの民衆に罪はない。自己利益のために歪んだ情報を社会に流す人権団体も同じだ。それらは捉え方によってはテロリズムよりもずっと罪深いものだ。マルチメディア優勢の時代になり一人ひとりが情報の発信側に立つようになった今、我々はそうしたバイアスの強化に加担しないよう注意するべきであろう。


では21世紀にもなって久しい現代で、各種メディアや人権団体がこれほどまでに執拗にポルノ叩きに邁進してしまうのはなぜか。女性の社会進出と人権運動が、性に対する保守的な価値観を持つ人々の考えを変えたり、セックスワーカーへの差別をなくさせるどころか、むしろ積極的にそうした保守主義、性差別思想に加担しているのはなぜか。それは我々現代人の男女同権思想の一部に根ざしたフェミニズム思想そのものが「家庭的あるいは性的な女性への差別」を内包しているからである。
参政権や就労権の獲得などといった政治的目的を既に達成し、その主な目的をすでに喪失していた第二波以降のフェミニズムは、今世紀に入り権力の側に立つことで第二の家父長制としての機能を持ち始めた。ラディカル・フェミニズムを中心としたミサンドリーと不可分な人権運動は、かつてウーマンリブの時代に築かれてきた女性の自由や自己決定を自ら否定、放棄しはじめている。それは「愚かな女性達への啓蒙」という極めて危険な思想になりつつあり、弱者女性達をむしろ虐げてきている。「男と対等に働く自立した女性こそが立派であり性を売り物にすべきでない」というフェミニズムの思想は、旧態依然とした男尊女卑の時代の価値観をただ女性視点から焼き直しただけのように見える。それは権力によるパターナルな弱者女性への人権弾圧を促進し、むしろ子を産み育てる女性特有の性質、家庭的役割を担う女性そのものへの攻撃にすらなり得るということは、ラディカルフェミニストの山下悦子ですら著書でそのように指摘している。
かつて90年代アメリカにカプコンが「ファイナルファイト」を輸出した時、「女を殴るなんて!」と批難を浴びて仕方なくポイズンにはオカマという設定が付け加えられたが、20年経った今のアメリカ産ゲームでは女が積極的に戦場に立ち、男と同じように殴られ殺されることがむしろ平等だとされている。Gamergate事件に代表されるSJW旋風はゲームから女性としてのセクシャリティを排除し、フィクションの世界ですらあくまで男性と同じよう振る舞い描写されることが女性に求められている。それは新たな女性性への抑圧である。(https://twitter.com/VoQn/status/741322487309303808)(http://jp.automaton.am/articles/newsjp/overwatch-porn-contents-got-blizzard-mad-and-taken-down-for-dmca/)フェミニズムの目的はとうに女性の自由や解放から逸脱し、社会において女性がどのように扱われるべきか、女性がどのように振る舞うべきかを規律する権力となりつつある。かつて女性に自由を与えようとしてきた運動が、「正しい男女観」を規律する警察に成り下がったのだ。それは彼女らが嫌悪するはずの「バックラッシュ」そのものであるようにも見える。
欧米を中心に巻き起こるポリティカルコレクトネス(PC)、ラディカル・フェミニズムが様々な文化表現を刈り取るようになって久しい。(http://damonge.com/p=16208)ことゲーム業界に限らず、これ以上フェミニズムやPCに基づく批判を社会が受け入れ続けるならば、あらゆる文化表現は死に絶えるしかないだろう。人が性と無縁に生きられない以上、人を描くエンタメは徹底的に性的でない表現にはなり得ない。いや、病的なフェミニスト達は徹底的に性を排除された表象にすら性を見出すだろう。(http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1512/02/news125.html)このままでは、性表現や性産業に携わる全ての人々の人権、あるいは自らの性的身体を露にするような服装や職業選択の自由すら奪われるような恐ろしい世界になるかもしれない。そんなディストピアへの危惧がいま現実のものになってきている。

自分は「全てのフェミニズムはアンチフェミニズムである」と思っている。
ラディカル・フェミニズムとリベラル・フェミニズムが、ポルノの攻撃とセックスワーカーの権利について真っ向から対立するように、大抵のフェミニズムは女性の保護を求める側と、女性の自由を求める側とに二分し対立する。かつてのフェミニズムはウーマンリブを掲げ女性の性の自由を求めたが、今では女性の性の庇護を求め性的自由を抑圧し続けている。女性の自由の証だとブルマのような開放的な服装が作られれば、別のフェミニストが女性を性的な目で見ることを助長するとしてそれを廃止する。セックスワーカーの権利や服装、職業の自由を求めるフェミニストと、男性を利するセックスワークや性的な服装、職業を社会から排除すべきだと考えるフェミニストの争いは至る所にある。プロライフとプロチョイスの争いだってそうだ。特に上野千鶴子に代表される日本のフェミニスト・リーダー達が「一人一派」を掲げた結果、フェミニズムは思想的に統一された集団ですらなくなり、相互に権利を主張し相互の権利を攻撃し合うだけの集団になってしまった。それは先日のHISの「東大美女図鑑」騒動にも現れている。(http://togetter.com/li/975039)ただの接客業務に就くことですら「性を売り物にしている」と批難され辞めさせられてしまう社会で、女性の社会進出などおよそ遠い夢の話ではないのだろうか。女性の職業選択の自由とは、性の自由とは何だったのだろう。彼女らの業務を攻撃した人々はまぎれもないフェミニストであるように見えるが、本来のフェミニズムの定義からしてみれば彼女らの主張はまぎれもなくアンチフェミニズムである。女性の人権をどのように捉えているかという視座の違いによって、誰かにとってのフェミニズムは、必ず誰かにとってのアンチフェミニズムになってしまうのだ。
一方で、明確に「アンチフェミニズム」を表明する男性も捉え方によってはフェミニストである。「一人一派」を掲げられたフェミニズムはもはや「女性の人権について考える」という以上の党派性をそこに見出すことができないからだ。だいたい殆どのアンチフェミニストは、いわゆる第一期フェミニズムの、男女の社会的平等を求めた運動についてまで反対しているわけではないので、彼らはどちらかといえばポストフェミニストであると解されるべきである。ともすればフェミニスト女性よりもフェミニズム文献に詳しいアンチフェミニストもいる。女性の人権がどうあるべきかについて常に考えているという点では、アンチフェミニストもまたフェミニストの一種であると自分は捉えている。ゆえに、「全てのフェミニズムはアンチフェミニズムである」と言える。

フェミニズムはミサンドリー(男性嫌悪)を正当化しない。こんなことを今更強く訴えねばならないほど、フェミニズムは大なり小なりミサンドリーを内包した思想として発達してきた。彼女らの主張は、当初から彼女らが嫌悪するセクシズム(性差別)そのものであった。これはまぎれもない事実である。
http://togetter.com/li/846083
フェミニズム運動の代表格であるレズビアン・フェミニズムのベティ・フリーダンなどは「レズビアンこそ最高の性である」と主張してミサンドリーを隠そうとはしなかったし、マッキノン=ドウォーキンを中心とするラディカル・フェミニスト達は性行為そのものが性暴力だと喧伝し、ポルノを通じて男性の性欲を攻撃してきた。一方で第二期フェミニズムのそうした流れからミサンドリーをフェミニズムから切り離そうという、ナディン・ストロッセンに代表されるリベラル・フェミニズムのような思想もあったが、彼女らはあくまでラディカル・フェミニズムのカウンターに過ぎず、その内には依然として性差別や性暴力の定義において男性を一方的に危険視するなど多くのマン・ヘイティングが見て取れるし、一方で彼女らがラディカル・フェミニズム言論に対して明確な対立や抗議を示してこなかったからこそ、いま世界はポルノグラフィ規制へと再び舵を切っているのである。おおよそのフェミニズムは今もなおミサンドリーを内包したままPC思想と深く結びつき伝播しており、だからこそ先程のような表明や「私達は男性を敵視しない」という#WomanAgainstFeminismのような意見表明が女性側から成されるような必要に迫られている。
そもそも、女性の性を強調した表現やミソジニー、セクシズムが何故ここまでの攻撃を受けねばならないのだろうか。ミサンドリーの顕現たるフェミニズムはまるで我こそが正義とばかりの顔をして大手をふって社会に受け入れられているではないか。「女性の生の声」ミサンドリーを正義として標榜するなら、「男性の生の声」ミソジニーもまた正義であり受け入れるのが真の男女平等であるはずである。人が性嫌悪に陥る理由は様々であり、女性が男性に脅威を感じたり理解を示さないように、男性もまた女性に脅威を感じたり理解を示さないことは往々にしてあることで、それは個々人の人生経験に依存するものであって他者が一方的に悪のレッテルを貼って糾弾していいものではない。痴漢に脅威を感じる女性の声が、痴漢冤罪に脅威を感じる男性の声よりも尊重されるべきであるとは自分には思えない。どんな議論も両論併記は当然の常識である。男女が対等であればこそ、男女がともに参画する社会における性の問題を公正に論じることができる。女性側の意見ばかりがメディアや司法において重視され、男性が女性側の訴えによって一方的に経済権や生存権すら奪われてしまいかねない危険を放置している現代社会は、「女性は弱者であり意見を尊重すべき」という男尊女卑の産物そのものではないのか。このような社会実態はかえって男性側の社会問題への取り組みの意思を奪うどころか、性差別を助長するばかりだろう。
フェミニズムがミサンドリーを内包する限り、それはミソジニーと同じ穴のムジナにしか成り得ない。男女中立的な視点から見れば「なんだ、彼女らは彼女らが嫌悪するセクシストと同属じゃないか。モテない男がミソジニーをこじらせるように、モテない女がミサンドリーをこじらせた結果がフェミニズムなのか」と理解されるのは当然のことだ。ミサンドリーを多分に内包したままフェミニズムが今まで社会に受け入れられてきたのは、彼女らがまさに敵視する家父長的男尊女卑の価値観が「女は弱い生き物だから、女の意見は男よりも尊重し擁護せねばならない」とゲタを履かせてきただけに過ぎない。男女平等が進めば進むほど、皮肉にもフェミニズムは彼女らが敵視してきたセクシズムと全く同一視され省みられなくなっていく。フェミニズムは敵対するはずの男尊女卑とまさにコインの裏表の関係であり、既存の家父長制を前提としたカウンタースピーチとしてしか存在し得ず、女性が弱者であるという前提条件を元にしなければ言論を成立させることも社会に受け入れられることもないため、このミサンドリーとミソジニーがないまぜとなった思想は、むしろ自らの存在意義のために積極的に女性の人権や表現の自由を弾圧するカルト的思想に染まってゆくしかないのだろう。

フェミニズムが女性を苦しめてしまうのは何故か。それはフェミニズムが一部エリートの女性だけを利する思想だからだ。バリキャリ女性が「出産・育児・家事はキャリアの阻害要因である」という考えを持つのは自由だが、それを全ての女性に適用しようとするのは間違っているし、全ての女性がそのような生殖の営為を否定する考えを抱く社会は必ず少子化を招き早晩崩壊するしかない。現実に日本の社会、経済は既にそうして滅びの道を歩んでいるし、欧米社会もまた、一部のエリート女性が貧しい女性をホームヘルパーやベビーシッターに雇って働くという形で、フェミニズムに毒されない旧態依然とした社会集団(移民・貧民)の女性の力を借りて辛うじて存続しているだけに過ぎない。
フェミニズムに染まったエリート達もまた「社会に出て働く人間だけが一人前の大人だ」という極めてマッチョな思想から脱却できていない。「経済力を持たなければ自分で自分のことを決められない」という考え方はきわめて暴力的な資本主義の側面だ。経済力のない者もみな自由で健康に生きられる社会をどうして目指すことができないのか。フェミニズムは経済力のない女性、家庭に入る女性をかえって迫害するだけであって、実際に彼女らがそうした女性を旧態依然としたロールモデルであるとして攻撃するケースが海外では後を絶たない。それは救うべき弱者のむしろ切り捨てであり、貧民層のパージである。マスキュリズム・男尊女卑は女性を「弱者」として一律救済する一種のノブリス・オブリージュを持っていたが、フェミニズムは女性は強くあれ、男性は女性の生き方に関わるな、と訴えるばかりで、弱者を救済することもしなければ、救済される道筋すらも絶とうとする。そこにおいて弱者女性も、弱者男性も、決して救われはしない。そこに女性本来の特質である上昇婚志向も伴って、現在こうしてどこの先進国でも格差社会が深刻化している。今、世界トップ50人の富裕層が持つ資産は、その他の地球人36億人の持つ資産と同じだと言われている。そのトップ富裕層のほとんどがアメリカ人だ。アメリカのエスタブリッシュメント達はこうした一部の強者によって支配された社会を守るためにフェミニズムを擁護しているのかもしれない。
男女を問わず、働くのに向いている人間も向いていない人間もいる。そのどちらの人間も対等に尊重される社会こそ目指すべきだと自分は思う。労働の能力などはあくまで人間の一側面にすぎず、それによってのみ人間の価値が評価される社会が正しいとは自分には思えない。それは労働力の搾取を招く。「働いてなければ一人前の人間として認められない」という労働者の強迫観念に経営者がつけこむのはたやすく、それは就職において強固な買い手優位市場へ繋がるだろう。労働は人が人として認められる最低条件ではなく、人が自由に生きていく間の余暇の切り売りであるべきだ。とりわけ日本のように労働者の権利の守られない国で、「女性が社会に出て輝く」などという妄言に踊らされた結果、女性達がどんな困難に直面したかは想像に難くない。あれは「男性の奴隷が足りなくなったので、女性を奴隷として使おう」と言っているのと変わらない。そもそもかつて社会で酷使されてきた、くたびれた中年男性サラリーマン達を誰も輝いているなどと思っていなかったではないか。それでも働くことが絶対正義などと考えるフェミニズムにもはや若年層の女性は共感できないでいる(http://dot.asahi.com/aera/2014091000079.html)。フェミニズムは女性の男性化を目指したのであって、女性らしい生き方そのものを救済はしなかった。「男らしさ、女らしさからの解放」を謳うだけで、では正しい在り方はどうあるべきかなどというものは示してこなかった。その姿は、まるで対案もなしに与党に闇雲に反対するばかりの幼稚な日本の野党政党のようだ。
 
自分はフェミニズムにもアンチフェミニズムにも特に加担する気はない。ただ、自由主義的自然権思想と立憲主義を基礎とした民主主義を擁護する考えから、特定の集団を弱者と定義し庇護することを名目としたパターナリズムだけは、これを徹底的に嫌悪する。児童や女性に対して猥褻な行為を禁止するのも、性的な情報を与えないようにするのも、セックスワークに就く自由や、自分の性を自由にする権利を奪うのも、避妊や性交の権利を奪うのも、基本的には何の論理的根拠もなく行われていることだ。「判断能力のない弱者に自由を与えると危ないから、人権を制限して守ろう」という思想であることに違いはない。それを平気で口にする己の判断能力こそ、どうして保証されていると思うのか。中高生が、女性が、弱者が、自分で自分のことを判断できず人の言いなりになってしまうというなら、成人男性だって大して変わらないだろう。そうでないと考えることこそ、「女子供は自分で自分のことを決められないが、成人男性は自立した判断力をもって自由に決められる」という決め付けこそが、フェミニズムの敵視してきた男尊女卑ではなかったのか。暴力が法で否定され、収入の男女差が無くなった今、その自立性が男性の腕力や経済力に依存しているという仮説はもはや否定されるべきである。結局のところ、完全に自分の意思だけで生きている人間なんていない。男女を問わず、大人も子供も問わず、誰しも多少なりと他人の意見や社会的立場に左右されて生きている。その時に弱者の立場として強者に振り回されないためにこそ知識が、教育が、そしてあらゆる選択肢を取ることのできる自由が必要なのであって、情報統制や権利の剥奪をもって庇護しようとすることは、より彼ら彼女らの弱者性を強化することでしかない。
性教育や性情報を敵視しながら児童性交や児童ポルノを徹底的に取り締まっている現状などがまさにそうだ。知識を与えず児童を弱者として抑圧しながら、ことさら児童の性を猥褻視することが人権侵害でなくて何なのだろう。児童はいずれ大人になる。性について学ぶ機会を奪われて育った大人たちは、男は性暴力に加担し、女はその被害者になるかもしれないし、あるいは男女が逆の図式にもなろう。それは男が女がどうこうではなく、教育の怠慢ゆえだ。教育の義務を放棄しながら人権意識がどうして根付くだろうか。自由がどうして許されるだろうか。それは人を野生動物にする行為だ。パターナリスティックに女子供を社会の有害とされる情報から保護隔離すればするほど、保護の対象となった人々は人間理性を前提とした社会から阻害されてゆくのではないか。

結局のところ、男女観についてどのようにあるべきかといった一方的な価値観の押し付けをする限り、それは必ずどこかの弱者を抑圧する結果にしかならない。ポリコレは「自分達こそが絶対的正義である」という独善性と不可分であるし、人をそのように二元論的な独善性に導き視野狭窄を引き起こさせる有害な思想であると自分は思う。
だから、トランプ氏にそのような意図はないのかもしれないが、トランプ氏が「私はポリコレを拒絶する」と表明したことについて、自分は喝采を送りたい。「多様性」という名の「独善性」に染まりきった今のアメリカで、彼のような人物がリーダーになることにはきっと意味がある。だからこそ直接選挙制を採るアメリカで彼があれほど支持を集めているのだろう。彼が取り戻したいのは昔の強いアメリカだ。昔、人々はその乱暴さから弱者への差別や暴力を行っていた。だが今では、人々はそれを心から正義だと信じて弱者への差別や暴力を行っている。どちらの価値観が歪んでいるのかはいずれ歴史が証明するだろう。彼を差別主義的だという人達は、今の社会が内包している「反差別」という名の差別主義にまだ気づいてない。およそ反差別を標榜する人の本音というものは「自分達が差別したくない集団は差別させない」以上の意味を持たないし、それ自体がとても差別的な思想だと自分は思う。
ムスリムがLGBTの集まるバーで乱射事件を引き起こし50人以上を死傷させた事件、アメリカでは悲惨なテロだと言われているが、イスラム圏では多くの喝采の声があがっている。必ずしもアメリカに対するテロを賞賛しているわけではない。イスラム教に限らず、多くの宗教は同性愛を禁じているからだ。それを愚かと断じるのは自由だが、おそらくアメリカのエスタブリッシュ達もこの「LGBT」を「ペドフィリア」に置き換えれば、同じように虐殺者を擁護し賞賛したに違いない。罪もないペドファイルを犯罪者に仕立て上げて社会的に抹殺するような娯楽番組があちこちで放送されているような現状が今のアメリカ社会の現実だからだ。
https://twitter.com/aoi_mokei/status/739242787481096192
https://twitter.com/aoi_mokei/status/739246038628728832
児童ポルノ規制の暴走がこうした性的マイノリティ差別を今も生み出し続けている。かつてLGBT、ひいては女性全体が受けてきた差別は対象を変え、より悪質かつ暴力的になって今も猛威をふるっている。人の道徳心などそのようなもので、一つの「善良な」価値観に染まるということは、他の価値観に基づいて生きている人間をどうしても悪に仕立ててしまう。相対的な価値観を喪失し、自分達こそが正義と盲目的にならぬよう常に注意を払わねば、どちらも結局は同じ穴のムジナにしかならない。
これはアメリカやヨーロッパの人々が愚かだという話ではない。海外にもたくさんの善良で理性的な人々がいるが、彼らが真っ当な声をあげられない状況が今も続いているということだ。海外で起きているようなことは、これまでだいたい日本でも20年遅れくらいで起きてきた。日本が彼らの失敗や愚行から反面教師として学び、あのようにならないよう警戒しなければ、日本のように個人の人権を軽視し道徳や社会の調和のために犠牲にするのを厭わないような国では、もっとずっと酷い事態を招きかねない。ただでさえ少子高齢化で滅亡へのカウントダウンを始めているこの国でそのような流れが起きれば、それが最後の一押しになり一挙に社会秩序の崩壊へ進む危険性があるだろう。自分達の国のルールが本当に人間理性に基づいているのか、然るべきエビデンスをもとにして法律が作られているのか、もっと我々は疑ってかかる必要がある。耳障りの良い意見に同調することばかりが求められるポピュリズムは日本を容易に戦前へと回帰させるどころか、今の弱い日本では国家体制そのものを崩壊させる危険性すらあるだろう。(https://twitter.com/dankanemitsu/status/741956078229819393
「万人の万人に対する闘争」を統べるのは、ホッブズも言ったように巨大なリヴァイアサンだ。将来的にいよいよ進退窮まった日本において、衆愚政治がどんな権力者を生み出すかわからない。過剰な人権闘争が、人類の歴史を大きく後退させる危険性に我々はもっと注意せねばならない。
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